なぜ脳は忘れるのか

この記事の読みどころ
  • 記憶はすべてをそのまま覚えるのではなく、未来に役立つ情報だけを残すように整理されることがある。
  • 睡眠など休んでいるときに記憶を再生して不要な情報を削る「予測的忘却」という仕組みがある。
  • 記憶の変化は忘れたのではなく、より良く学ぶための最適化の結果で、人工知能でも同じような現象が確かめられた。

私たちは日々さまざまな経験をしています。
新しい場所へ行き、人と会い、ものを見て、出来事を覚えていきます。

しかし不思議なことに、人間の記憶はすべてをそのまま残しているわけではありません。
時間が経つにつれて、細かな出来事は曖昧になり、代わりに「要点」だけが残ることがあります。

たとえば、数年前に行ったレストランを思い出すとき、
照明の明るさや周囲の音、椅子の配置などを正確に覚えている人はあまりいません。

しかし

・料理がおいしかった
・雰囲気がよかった
・また行きたい店だった

といった印象は残っていることが多いでしょう。

長い間、このような記憶の変化は「記憶の劣化」や「忘却」として説明されることが多くありました。
しかし最近の研究は、まったく違う可能性を示しています。

脳は単に記憶を失っているのではなく、
未来に役立つ情報だけを残すように記憶を整理している可能性があるのです。

この考え方を研究者たちは
予測的忘却(predictive forgetting)
と呼んでいます。


記憶の本当の目的は「未来に役立つこと」

知能の重要な能力のひとつは、過去の経験を使って新しい状況に対応することです。

これを心理学や人工知能では
一般化(generalisation)
と呼びます。

たとえば子どもが初めて犬を見たとき、
次に別の犬を見ても「犬だ」と理解できます。

これは前に見た犬と完全に同じではなくても、
共通する特徴を見つけているからです。

もし脳が経験の細部までそのまま保存していたらどうなるでしょうか。

犬を見たときの

・背景
・光の当たり方
・周囲の物体
・地面の色

などもすべて同じでなければ、
「同じ犬だ」と判断できなくなるかもしれません。

つまり、

細かい情報を覚えすぎると、むしろ学習の役に立たない

のです。

この問題は人工知能でもよく知られています。

機械学習では、
訓練データを細かく覚えすぎると、
新しいデータにうまく対応できなくなります。

これを

過学習(overfitting)

と呼びます。

研究者たちは、人間の記憶にも似た問題が存在すると考えました。


記憶は「未来を予測できる情報」だけを残す

研究では、記憶を情報理論の視点から分析しました。

その結果、一般化の性能を決める重要な要素が見えてきました。

それは、

入力に関する不要な情報をどれだけ減らせるか

という点です。

経験にはさまざまな情報が含まれています。

たとえばレストランの例で考えると、

入力の情報には

・照明
・音
・席の配置
・料理の味
・店員の対応

などが含まれます。

しかし将来の行動に関係するのは、

・料理がおいしいか
・店が快適か

といった情報です。

照明や背景音などは、
未来の判断にはあまり役に立たないことが多いでしょう。

そこで脳は、

未来の結果を予測するのに役立たない情報を少しずつ削除していく

と研究者たちは考えました。

これが予測的忘却です。

簡単に言えば、

経験の中から「未来に関係のない部分」を消していく

という仕組みです。


なぜ睡眠が重要なのか

研究者たちは、こうした記憶の整理が
オフラインの時間に行われると考えています。

つまり

・休憩
・ぼんやりしている時間
・睡眠

などのときです。

起きている間、脳は目の前の情報を処理する必要があります。
そのため経験をできるだけ正確に記録しようとします。

しかしその状態では、
どの情報が重要でどれが不要かをすぐに判断することは難しいのです。

そこで脳は

  1. 起きているときに経験をそのまま保存する

  2. 休んでいるときに記憶を再生する

  3. 未来に関係ない情報を削る

という段階的な処理を行うと考えられています。

この過程は

記憶の固定(memory consolidation)

と呼ばれています。

研究者たちは、この過程の本当の目的は
単なる記憶の保存ではなく

一般化を最適化すること

だと説明しています。


脳の大きな容量が「忘却」を必要にする

研究の重要な発見のひとつは、
脳の容量が大きいほど忘却が必要になるという点です。

容量が小さいシステムでは、
そもそも細かい情報を保存できません。

そのため自然に情報が圧縮されます。

しかし人間の脳のように容量が大きいシステムでは、
経験の細部まで保存することが可能です。

その結果、

不要な情報まで覚えてしまう

という問題が起こります。

この問題を解決するために、
脳は時間をかけて記憶を整理していると考えられています。

研究者たちは、この仕組みが

・睡眠中の記憶再生
・記憶の変化
・エピソード記憶から意味記憶への変化

など、多くの現象を説明できる可能性があると述べています。


記憶が変わるのは「劣化」ではない

長い間、神経科学では
時間とともに記憶が変化する現象が観察されてきました。

同じ出来事でも、
時間が経つにつれて脳の活動パターンが変化することがあります。

この現象は

表象ドリフト(representational drift)

と呼ばれています。

従来は、この変化は単なるノイズや不安定さだと考えられていました。

しかし今回の研究は別の可能性を示しています。

記憶の変化は

不要な情報を削る最適化の過程

なのかもしれません。

つまり脳は記憶を維持しようとして失敗しているのではなく、

より良い形に再構成している

可能性があるのです。


人工知能にも同じ問題がある

研究では、この理論を

・神経回路モデル
・機械学習モデル
・大規模言語モデル

などで検証しました。

その結果、同じ現象が確認されました。

記憶をそのまま保存するモデルでは、

・訓練データには強い
・新しいデータに弱い

という問題が起きます。

しかし記憶を圧縮する処理を加えると、

新しい問題への対応能力が向上する

ことが確認されました。

つまり、

忘却は知能にとって欠点ではなく必要な機能

である可能性があります。


記憶の役割は「経験を残すこと」ではない

今回の研究が示しているのは、
記憶の役割そのものを見直す視点です。

私たちはしばしば、記憶の目的を

「経験を保存すること」

だと考えます。

しかしこの研究は、
記憶の本当の役割は

未来を予測できる知識を作ること

だと示唆しています。

そのためには、

・経験を覚えること
・経験を整理すること
・不要な情報を忘れること

のすべてが必要になります。

忘却は記憶の失敗ではなく、
知能がより良く働くための重要な仕組みなのです。

(出典:arXiv DOI: 10.48550/arXiv.2603.04688

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