絶対を探すという奇妙な運動

この記事の読みどころ
  • 絶対を探す気持ちは安心を求めるが、定義や形はすぐ崩れやすい。
  • スピノザは本質はすでに完成していて、有限は内と外の力のバランスで揺れると考える。
  • 絶対空間は物を入れる箱ではなく、光や距離で生まれる空間で、想像がその橋渡しになる。

なぜ「絶対」を探してしまうのか

「絶対」という言葉には、どこか安心を求める響きがあります。
揺れないもの、変わらないもの、依存しないもの。もしそれがあるなら、私たちの不安は少し軽くなるのではないか。そんな期待が、この言葉にはつきまといます。

しかし同時に、絶対はつかまえにくい概念です。はっきり定義しようとすると、手のひらからすり抜けていく。輪郭を描こうとすると、かえって曖昧になる。

今回取り上げる論文は、この「絶対を探す」という営みそのものを問い直します。
舞台に登場するのは、17世紀の哲学者スピノザと、20世紀の哲学者サルトル。そして、その間を結ぶ存在として彫刻家ジャコメッティが現れます。

論文は、スピノザの形而上学とサルトルの存在論を、「絶対空間」という概念を軸に読み直そうとします。そしてその接続を可能にする媒介として、「想像(イマジネーション)」が重要な役割を担います。

この研究は、Philosophies誌に掲載された論文「The Quest of the Absolute: Spinoza and Sartre」で、著者はコスタリカ工科大学(Instituto Tecnológico de Costa Rica)の研究者です。ここでは論文内容のみに基づいて、その議論をたどります。


スピノザにおける有限という緊張

スピノザの哲学では、世界は「実体(サブスタンス)」と呼ばれる唯一の無限な存在によって成り立ちます。そして、私たちを含むあらゆる個物は、その実体の「様態(モード)」として存在します。

ここで重要なのは、有限な存在は二重に拘束されている、という点です。

第一に、それぞれのものは「自分の本性」によって規定されます。何であるかによって、できることが決まる。
第二に、それぞれのものは、外部の他のものから影響を受けます。より強い力によって押され、形を変えられる可能性を常に抱えています。

つまり有限な存在は、内側の必然と外側の必然のあいだで揺れ動きます。完全に自律しているわけでもなく、完全に受動的でもない。その緊張の中で存在しています。


本質は「まだ完成していないもの」ではない

私たちは本質という言葉を聞くと、まだ実現していない可能性のように理解しがちです。しかし論文は、スピノザにおいて本質は「未完成の種」ではないと強調します。

本質は、すでにそれ自体として完全です。
存在していないからといって、本質が不足しているわけではありません。

論文では、ソナタの比喩が紹介されます。演奏されていないソナタが「未完成」であるとは言えません。演奏という出来事とは独立に、その構造はすでに成り立っています。

同じように、スピノザにおける本質は、存在の有無とは別の次元にあります。

では何が変わるのか。
それは「力の程度」です。

スピノザの有名な概念であるコナトゥス(自己保存の努力)は、存在が自らの本質を保とうとする働きを指します。本質そのものは変わりませんが、外部との関係のなかで、行為の力は増減します。

ここに、有限性のドラマがあります。


限界は「不足」ではなく「到達」

有限なものは、より強いものによって壊されうる存在です。
しかし論文は、有限性を単なる弱さとは捉えません。

限界とは、ある意味で「到達」です。
それ以上でもそれ以下でもない、そのもののあり方が張りつめた地点。それが限界です。

有限なものは、自分の本質を最後までやりきろうとします。そのやりきりの形が、限界として現れます。

ここで、論文は一つの大胆な橋を架けます。それが「絶対空間」という概念です。


絶対空間とは何か

通常、私たちは空間を「入れ物」として考えます。物がその中に置かれ、距離が測られ、前景と背景が分かれる。

しかし論文が参照するビザンチンのモザイク芸術では、距離は観察者の側で決まるものではありません。むしろ作品の側が、見る者との距離を決めます。

近づいても、遠ざかっても、ある種の緊張が保たれる。
その空間は、私たちの身体を基準にしていない。

これが「絶対空間」と呼ばれるものです。

ここでは、形は背景から切り取られません。光と色の放射が空間そのものを構成します。
空間は容器ではなく、出来事として立ち上がります。

論文は、この絶対空間の考えを、スピノザの本質概念と結びつけます。本質は、他との関係のなかでのみ現れるのではなく、ある種の内在的な充満として存在します。それは、私たちの視点によって測定されるものではありません。


サルトルとジャコメッティ

ここで舞台は20世紀に移ります。
サルトルは、彫刻家ジャコメッティの作品を論じる中で、独特の空間感覚を描写します。

ジャコメッティの人物像は、極端に細く、孤立し、周囲との距離が不思議な緊張を保っています。それは単に「細い像」なのではなく、空間そのものを張りつめさせています。

サルトルにとって、その空間は観察者の側から測定できるものではありません。
人物は空間の中に置かれているのではなく、空間を生み出している。

ここでも「絶対空間」が現れます。

スピノザが本質を通して示したものと、サルトルが芸術論のなかで描写したものは、異なる出発点を持ちながら、同じ方向を指していると論文は示唆します。


想像という媒介

では、この二つをつなぐものは何でしょうか。

論文は「想像(イマジネーション)」を媒介として提示します。

想像は、単なる空想ではありません。
見えないものを形にし、距離を作り、空間を構成する力です。

絶対は、理性だけで直接把握できるものではありません。
しかし想像は、形やイメージを通して、その手触りを与えます。

スピノザの形而上学とサルトルの存在論のあいだには時代も文脈も隔たりがありますが、想像を通して読むと、両者は「絶対をどう経験するか」という同じ問いに向かっているように見えてきます。


絶対はどこにあるのか

この論文は、絶対を一つの答えとして提示しません。
むしろ、絶対を探す運動そのものを描き出します。

有限な存在は、外部に押されながら、自分の本質を保とうとします。その張りつめのなかで、限界が現れます。

芸術は、その張りつめを空間として示します。
哲学は、その張りつめを概念として示します。

絶対は、どこか遠くにある完成されたものではなく、
有限が自らをやりきろうとする、その緊張のなかにほのかに現れる。

そう読むこともできるかもしれません。

絶対を求めるということは、揺れない土台を探すことなのでしょうか。
それとも、揺れのなかに張りつめを見つけることなのでしょうか。

論文は、結論を閉じません。
ただ、スピノザとサルトルを並べることで、私たちの足元にある「空間」の感覚を、少しだけ揺らします。

絶対は、どこか別の場所にあるのではなく、
私たちが立っているこの有限の場所のなかで、すでに問いとして始まっているのかもしれません。

(出典:Philosophies

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