- アテンション・シーキング(注目を求めること)が病気かどうかは、線引きがはっきりしていないという議論がある。
- 人は赤ちゃんから大人まで、つねに誰かに見てもらいたいという欲求をもつと説明されている。
- 欲求自体は自然だが過剰になると問題になるので、病気かどうかを問うよりバランスの問題として見るべきだ、という考え方も紹介されている。
赤ちゃんは、泣きます。
子どもは、「見て見て」と言います。
大人も、SNSに写真を投稿します。
私たちは一生を通して、「誰かに見てほしい」と思い続けています。
では、この気持ちは、未熟なのでしょうか。
それとも、人間にとって自然なものなのでしょうか。
2026年2月18日、ドイツのBASFに所属する研究者が、査読付き学術誌『Frontiers in Psychology』に一つの意見論文を発表しました。
問いは、シンプルです。
「アテンション・シーキング(注意を求めること)は、本当に病気なのか?」
「目立ちたがり」は異常なのか?
精神医学の診断基準DSM-5では、「アテンション・シーキング」は人格障害の特徴の一つとして説明されています。
定義はこうです。
「他者の注意や称賛を引きつけ、自分を注目の中心にしようとする行動」。
たしかに、極端な場合には問題が生じることがあります。
しかし著者は、ここに重要な疑問を投げかけます。
その定義には、「どこからが過剰なのか」が明確に書かれていないのです。
たとえば、
・おしゃれをする
・目立つ服を着る
・成功をアピールする
・SNSで発信する
これらも広い意味では「注目を集める行動」です。
けれど私たちは、それをすぐに病気とは呼びません。
では、どこからが自然で、どこからが異常なのでしょうか。
その線引きは、本当に妥当なのでしょうか。
実は、人はみんな「注意」を求めている
著者は、アテンション・シーキングを別の角度から見直します。
それは「他者からの注意を必要とする心」だ、という考え方です。
そしてこれを、心理学者マズローの欲求階層理論と結びつけます。
マズローは、人間の欲求を段階的に説明しました。
まずは「愛と所属」。
次に「自尊心」。
そして「自己実現」。
著者の視点はとてもわかりやすいものです。
これらはすべて、「どこから注意を得ようとしているか」という違いにすぎないのではないか、というのです。
赤ちゃんから大人まで続く「注意の旅」
赤ちゃんは、親の注意を求めます。
それは生きるために必要です。
子どもは、友達に認められたいと思います。
思春期になると、より広い社会へと目を向けます。
やがて大人になると、「自分はどうありたいか」「自分をどう評価するか」といった内面の問いに向かいます。
この流れは、社会の中で成長していくプロセスそのものです。
注意を求めることがなければ、私たちは人とつながろうとしないかもしれません。
努力しようとも、評価されたいとも思わないかもしれません。
「見てもらいたい」という気持ちは、社会の中で生きるためのエネルギーなのです。
病気なのは“欲求”ではなく“過剰”
もちろん、問題が生じることはあります。
近しい人に過度に依存してしまう。
常に群衆の注目を浴びなければ不安になる。
自分を誇大的に評価し続ける。
そうした状態は、人格障害と関連づけられることがあります。
しかし著者は、ここが大切だといいます。
それは「別の種類の心」なのではなく、
「同じ欲求が過度に強くなった状態」なのではないか。
つまり、病理は欲求そのものではなく、そのバランスの崩れにあるのではないか、というのです。
「健全なナルシシズム」という考え方
この視点は、「健全なナルシシズム」という考え方にもつながります。
自分を大切に思うこと。
自分の価値を感じること。
これがまったくなければ、私たちは自信を持てません。
適度な自己愛は、むしろ心理的健康の土台です。
問題になるのは、それが極端になったときです。
著者は、現代社会が個人主義を強め、スマートフォンなどの技術が自己表現を容易にしたことで、注意の求め方が変化している可能性にも触れています。
つまり、「ナルシシズムの増加」は、人間の基本的欲求が社会環境の影響を受けて形を変えた結果かもしれない、という見方です。
私たちはなぜ、見てほしいのか
ここで一度、立ち止まってみましょう。
あなたは、誰かに褒められたとき、うれしくありませんか。
努力を認められたとき、安心しませんか。
それは弱さでしょうか。
それとも、人間らしさでしょうか。
赤ちゃんが泣くのも、
子どもが作品を見せるのも、
大人が成果を共有するのも、
根っこには同じものがあります。
「私はここにいる」と伝えたい。
「あなたとつながりたい」と願っている。
注意を求めることは、孤立から抜け出そうとする動きでもあります。
病理化しすぎていないか
この論文は、注意を求める心を無条件に肯定しているわけではありません。
過剰で、苦しみを生み、周囲を傷つける場合には、支援が必要です。
しかし出発点が、「あなたは異常だ」というラベルではなく、
「あなたはどんな注意を求めているのか」という理解であるなら、
支援のあり方は変わるかもしれません。
もしかすると私たちは、「かまってほしい」という言葉に、必要以上の否定的な意味を与えてきたのではないでしょうか。
見てもらいたいという、静かな願い
人は、見られないと存在が揺らぎます。
誰からも気づかれず、誰からも反応がない世界は、想像以上に過酷です。
だから私たちは、声を出します。
服を選びます。
写真を投稿します。
成果を語ります。
それは、つながりを求める動きです。
この論文は、心理学にこう問いかけています。
注意を求める心を、すぐに病理として切り分けてしまってよいのか。
それとも、それは人間の根本にある欲求として、もう一度理解し直すべきなのか。
「かまってほしい」は、弱さでしょうか。
それとも、つながりたいという、ごく自然な願いでしょうか。
答えは一つではありません。
けれど、この問いを持つこと自体が、
私たちの人間理解を少しやわらかくしてくれるのかもしれません。
(出典:Frontiers in Psychology DOI: 10.3389/fpsyg.2026.1732206)

