- 言葉は私たちの考え方を形づくりうるとされ、文法の違いが思考の癖に関係する可能性がある。
- 禅は言葉をいったん止めることで内側の言語の流れを減らし、沈黙を使って思考の枠組みをリセットする。
- 西田幾多郎は言語を捨てずに内部で再構成する考えを作り出し、沈黙と再構成を往復する中道モデルを提案した。
はじめに:言葉は私たちを形づくっているのか
私たちは、言葉で世界を理解しています。
赤い花を見て「赤い」と言い、未来を「前」と呼び、責任を「誰がやるのか」と主語で整理する。こうした言語のしくみは、単なる道具ではなく、私たちの思考そのものをかたちづくっているのではないか。
この問いに向き合った研究が、2026年に学術誌『Frontiers in Psychology』に掲載されました。
この研究は、武漢晴川学院外国語学院、延世大学大学院国際関係学部、四川軽化工大学外国語学院の研究チームによって行われたものです。東アジアの思想資源を用いて、言語と認知の関係を理論的に再構成する試みです。
論文は、「言語が思考に影響を与える」というサピア=ウォーフ仮説(言語相対性仮説)を出発点に、日本の禅と、西田幾多郎の哲学を組み合わせ、「沈黙」と「言語」のあいだにある新しい理論モデルを提示しています。
それは、言語を否定するのでもなく、言語に閉じ込められるのでもない、第三の道でした。
言語は思考をどこまで方向づけるのか
サピア=ウォーフ仮説の「弱い立場」は、言語の文法や語彙が、私たちの注意の向け方や思考の習慣に影響を与えると考えます。
たとえば、英語では主語が明確に必要です。「I think」「She did」など、誰が行為者なのかをはっきりさせる構造になっています。これに対し、日本語では主語を省略でき、「食べる」「そう思う」のように、文脈の中で意味が立ち上がります。
研究では、こうした文法の違いが、「個人中心的・分析的な思考」と「関係的・全体的な思考」の傾向と統計的に関連する可能性が紹介されています。
ただし重要なのは、「どちらが優れている」という話ではないことです。あくまで、文法が無意識の思考習慣を後押しすることがある、という問題設定です。
ここで問いが生まれます。
もし言語が私たちの思考に影響しているなら、そこから自由になることはできるのでしょうか。
この問いに対し、論文は二つの東洋思想を対話させます。
禅という戦略:言語をいったん止める
一つ目は、日本の禅です。
禅は「不立文字(文字に立たず)」という立場をとります。言葉や理屈ではなく、直接的な体験を重視します。
公案――たとえば「犬に仏性はあるか」「無」など――は、論理的に答えられない問いを与えることで、思考の枠組みそのものを揺さぶります。坐禅は、呼吸に注意を向けることで、内的な言語の流れを弱めます。
論文ではこれを、「言語による認知のデフォルト設定を一時的に停止させる実践」として捉えています。
私たちはふだん、頭の中で絶えず言葉を回しています。「どう言い返すか」「どちらが正しいか」「誰の責任か」。その内的対話が、世界を「私」と「対象」に分ける構造を強めています。
禅は、そこにブレーキをかけます。
沈黙によって、言語的枠組みをいったんゼロに戻すのです。
ここでは言語は再構築されません。ただ、いったん止まります。
西田幾多郎という戦略:言語を内側から組み替える
もう一つの道が、西田幾多郎の哲学です。
西田は「純粋経験」という概念を提示しました。これは、まだ「私が見る」「それが対象である」と分かれる前の、直接的な経験の状態を指します。
しかし西田は、禅のように言語を捨てませんでした。むしろ、日本語という言語の特徴を活かしながら、その内部で新しい論理を構築しようとしました。
彼の中心概念の一つが「絶対矛盾的自己同一」です。互いに完全に矛盾するものが、より深い次元では同一であるという考えです。
たとえば、「私」と「世界」は対立しているように見えます。しかし「私」がいなければ世界は現れず、世界がなければ私も成立しません。その意味で両者は切り離せません。
西田はこれを「場所の論理」として展開します。言語を、モノを固定する道具ではなく、関係が生まれる場として捉え直すのです。
論文は、この試みを「言語の再構築」として位置づけています。
禅が言語を止めるのに対し、西田は言語を組み替える。
ここに二つの戦略の補完関係が見えてきます。
中道モデル:沈黙と再構成の往復
研究チームは、この二つを統合し、「ミドル・ウェイ(中道)モデル」を提案します。
その構造は三段階です。
① 文法によるロックを認める
まず、言語が思考に影響を与えることを認めます。文法は無意識の枠組みをつくる。それを否定しません。
② 沈黙でゼロに戻す
次に、短時間でもよいので言語的思考を停止します。公案や呼吸への集中によって、内的独白をいったんリセットします。
ここで、「主語」「正誤」「責任」といった文法的構造が緩みます。
③ 関係的表現へ組み替える
その後、言語に戻ります。ただし、もとの習慣に戻るのではなく、関係的な表現へと再構成します。
「私はこう思う」ではなく、
「この状況では、こうした方向がつながりやすいように見える」
主体を固定するのではなく、状況の中で意味が生まれていることを表現する。
この沈黙と再構成の往復が、「中道モデル」の核心です。
教室での実践例
論文では、国際的な大学の授業での試みも紹介されています。
英語母語話者は明確な主語表現を用いる傾向があり、東アジアの学生は関係的で間接的な表現を用いることがあります。その違いが誤解や摩擦を生むことがあります。
授業では、
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数分間の呼吸への集中
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発言の関係的な書き換え練習
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強い主語表現に戻った場合の再リセット
という循環を行いました。
学生からは、「正しいか間違いかの争いにならなかった」「“I”を使わずに意見を言えることに驚いた」といった感想が報告されています。
これは厳密な実験ではありませんが、理論を教育実践へ橋渡しする例として提示されています。
言語は檻か、それとも可変的な場か
この研究が示しているのは、言語は絶対的な檻ではない、ということです。
言語は思考を方向づけます。しかし、それは変更不能な決定ではありません。
沈黙によって枠組みを緩めることができる。
そして、言語そのものを組み替えることもできる。
論文は、極端な相対主義にも、単純な普遍主義にも立ちません。
・言語には影響力がある
・しかしそれは超えられない壁ではない
・沈黙と再構成の往復が柔軟性を生む
という動的な立場を提示しています。
おわりに:沈黙と表現のあいだ
私たちは言葉で世界を分け、整理し、説明しています。
しかし、ときに言葉を止めることでしか見えないものがあります。
そして、言葉に戻ったとき、その使い方を変えることでしか開けない可能性もあります。
禅は、言語を超える可能性を示しました。
西田は、言語の内部からそれを組み替える可能性を示しました。
この研究が提案する中道モデルは、そのあいだに橋をかけます。
言語に閉じ込められないこと。
しかし、言語を捨てないこと。
沈黙と表現のあいだを往復しながら、思考を柔らかくしていく。
それは異文化コミュニケーションの問題だけではなく、私たちが日常でどのように考え、語り、理解しあうかという、より根源的な問いにつながっているのかもしれません。
(出典:Frontiers in Psychology DOI: 10.3389/fpsyg.2026.1638010)

