- 部屋を分けてドアを通ると境目の情報が少し覚えやすくなることがあるが、その効果は長く続かない。
- 実験では境目の単語は直後は記憶されやすいが、全体の記憶には大きな影響を与えず、時間が経つと消えることが多い。
- 記憶は場所の区切りだけで決まらず、体験の流れや文脈に強く左右される。
ドアを通ると、なぜ少しだけ覚えやすくなるのか
― 記憶は「区切り」に敏感だが、その効果は長く続かない
私たちは日常の中で、部屋から部屋へ移動しながら、さまざまなことを覚えています。
机の上で覚えたこと、廊下を歩きながら考えたこと、別の部屋で聞いた話。
こうした「場所の移動」は、単なる背景の変化ではなく、記憶の働きに影響を与えることが知られています。
とくに注目されてきたのが、「ドアを通る」という行為です。
過去の研究では、ドアを通って別の部屋に移動すると、直前の記憶が弱まりやすい一方で、出来事が区切られることで、情報が整理されやすくなる可能性も指摘されてきました。
今回紹介する研究は、この一見矛盾した現象に正面から向き合っています。
「場所の区切りは、本当に記憶を助けるのか」
「もし助けるのだとしたら、その効果はどのくらい続くのか」
こうした問いを、非常に丁寧な実験によって検証しています。
記憶は「出来事のかたまり」として保存される
この研究の背景にあるのは、「出来事認知(イベント・コグニション)」と呼ばれる考え方です。
人は経験を、連続した一つの流れとしてではなく、「出来事のまとまり」として理解し、記憶していると考えられています。
たとえば、
-
場所が変わる
-
行動が切り替わる
-
状況のルールが変わる
こうした変化が起こると、脳は「ここで一つの出来事が終わり、新しい出来事が始まった」と判断します。
この境目は「イベント境界」と呼ばれ、注意が高まりやすく、その前後の情報は記憶に残りやすいとされてきました。
ドアを通って別の部屋に入るという行為は、まさにこの「イベント境界」を強く作り出す代表的な例です。
研究の目的
―「部屋を分けると覚えやすくなる」は本当か
これまでの研究の中には、
「同じ情報でも、1つの部屋でまとめて学ぶより、2つの部屋に分けて学んだ方が、後で思い出しやすい」
と報告したものがあります。
理由として考えられてきたのは、
-
情報が自然に区切られる
-
かたまりとして整理される
-
思い出すときの手がかりが増える
といった点です。
しかし、その効果は一貫して観察されてきたわけではありません。
また、多くの研究は「すぐ後の記憶」だけを調べており、時間が少し経った後にどうなるのかは、十分に検証されていませんでした。
そこでこの研究では、
-
本当に「部屋を分ける」ことは記憶を助けるのか
-
その効果は「境目の情報」に限られるのか
-
時間や移動が増えると、その効果はどう変わるのか
を、2つの実験で詳しく調べています。
実験の特徴
― 仮想空間で「移動」を再現する
研究を行ったのは、アメリカのノートルダム大学の研究チームです。
実験は、参加者が自分のパソコンで操作する「仮想空間」の中で行われました。
参加者は、
-
部屋の中を歩く
-
テーブルに近づく
-
そこで単語を覚える
という行動を、ゲームのような操作で繰り返します。
覚えるのは、20個の単語のリストです。
このリストは、
-
1つの部屋の中で前半と後半を覚える場合
-
ドアを通って別の部屋に移動し、前半と後半を覚える場合
の2通りで提示されました。
重要なのは、移動距離そのものは同じで、「ドアがあるかどうか」だけが違う点です。
つまり、「出来事が区切られたかどうか」だけを操作しているのです。
実験1の結果
― 境目の単語は覚えやすいが、全体としては有利にならない
最初の実験では、覚えた直後にテストが行われました。
その結果、はっきりと示されたのは次の点です。
-
単語リストの「境目」にあたる単語は、他の単語より覚えやすい
-
しかし、「部屋を分けたからといって、全体の記憶成績が良くなるわけではない」
むしろ一部の分析では、
部屋を分けた方が、境目の単語の記憶がわずかに悪くなるという結果さえ見られました。
また、
-
単語が「前半」「後半」というかたまりとして整理されて思い出されるか
を調べる指標でも、部屋を分けた効果はほとんど確認できませんでした。
実験2の結果
― 効果は「すぐ後」だけ、しかも条件つき
2つ目の実験では、参加者数を大幅に増やし、さらに重要な操作が加えられました。
それは、
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覚えたあと、テストまでに
-
そのままテストする
-
1つ別の部屋を通る
-
2つ別の部屋を通る
-
という違いを作ったことです。
ここで分かったことは、とても示唆的です。
-
覚えてすぐにテストした場合に限り
-
部屋を分けた方が
-
「境目の単語」だけは、少し覚えやすくなる
-
-
しかし、
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1つ、2つと別の部屋を通ると
-
その効果はほぼ消えてしまう
-
つまり、
ドアを通って生まれる「覚えやすさ」は、
ごく短時間しか持続しない
ということが、はっきり示されたのです。
なぜ効果はすぐに消えるのか
研究者たちは、いくつかの可能性を指摘しています。
ひとつは、
出来事のかたまりが、移動を重ねるうちに再び統合されてしまうという考え方です。
別の部屋を通るたびに、
-
新しい出来事が始まる
-
それまでの記憶は少しずつ遠ざかる
結果として、最初に作られた「区切り」の意味が薄れていくのかもしれません。
また、この研究では「単語リスト」という非常に単純な情報を使っています。
物語や映像のように意味のつながりが強い情報であれば、結果は違った可能性も示唆されています。
この研究が示していること
この研究は、私たちが直感的に信じがちな考えに、静かにブレーキをかけています。
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「環境を区切れば、記憶はよくなる」
-
「ドアを通ることは、情報整理に役立つ」
これらは、常に正しいわけではありません。
確かに、
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出来事の境目では注意が高まり
-
その前後の情報は一時的に覚えやすくなる
しかし、その効果はとても繊細で、
少し移動しただけで、すぐに失われてしまうのです。
記憶は、思った以上に「今ここ」に縛られている
この研究が教えてくれるのは、
記憶が「うまく区切れば保存される箱」ではない、という事実です。
記憶は、
-
どこで
-
どんな流れの中で
-
どれだけ連続して体験したか
といった「文脈」に、強く依存しています。
ドアを通ることは、確かに一区切りを作ります。
けれど、その区切りは、私たちが思うほど強固でも、長持ちでもありません。
記憶は、常に動いていて、
次の一歩、次の部屋によって、静かに書き換えられていく。
この研究は、そんな記憶の「はかなさ」と「しなやかさ」を、静かに浮かび上がらせています。
(出典:Memory & Cognition DOI: 10.3758/s13421-025-01832-8)

