最初の幾何学はどのように生まれたのか

この記事の読みどころ
  • 109枚の卵殻片の線は直線が多く、平行な線が多く、直角の交差も規則的だった。
  • 回転・平行移動・反復・埋め込みという4つの操作で模様が作られており、単なる偶然ではないとされた。
  • これを「幾何学的文法」と呼び、意味より先に空間を組み立てる能力が6万年前の人にもあった可能性を示している。

6万年前の卵殻に刻まれた「思考の文法」

イタリアの**ボローニャ大学(University of Bologna)およびローマ・サピエンツァ大学(Sapienza University of Rome)**の研究チームは、約6万年前のアフリカ南部で作られたダチョウの卵殻の刻線模様を、幾何学的・統計的に分析しました。

対象となったのは、南アフリカとナミビアの遺跡から出土した「刻まれたダチョウ卵殻(engraved ostrich eggshells)」です。
これらは、後期中期石器時代(Late Middle Stone Age)の**ハウイソンズ・ポート文化(Howiesons Poort technocomplex)**に属します。

これまで、この刻線は「象徴的」「装飾的」なものとして語られることが多くありました。しかし本研究は、象徴解釈には踏み込みません。問いはもっと基礎的です。

この線は、本当に「構造」をもっているのか。
それとも偶然に近い刻みの集まりなのか。

研究チームは、線の傾き、平行性、交差角度、空間的配置を数値化し、統計的に検証しました。
その結果、そこには明確な規則性があることが示されました。

そして研究者たちは、この構造を「幾何学的文法(geometric grammar)」と呼びました。


卵殻に刻まれた線は、どれほど規則的なのか

分析対象は109片の卵殻断片です。
合計1275本の線、1635の線分、1405の交差点が数値化されました。

まず明らかになったのは、線の約79%が直線であるという点です。
さらに、83%以上の線分が平行関係をもっています。

交差部にできる角度のうち、約34%が**直角(90度前後)**でした。

ここで重要なのは、直角や平行という特徴が偶然ではなく、統計的に顕著に現れているという点です。
主成分分析(Principal Component Analysis)によって、最も構造を特徴づけていたのは「直交性(orthogonality)」と「平行性(parallelism)」でした。

つまり、この刻線は、ただ線が引かれているのではありません。
線は「方向」と「関係」をもって配置されています。


見えてきた4つの操作

研究チームは、これらのパターンがどのように作られたかを分析しました。
すると、刻線には繰り返し現れる操作があることがわかりました。

それは次の4つです。

  • 回転(rotation):ある線を一定角度回して交差を作る

  • 平行移動(translation):同じ線を等間隔でずらす

  • 反復(iteration):同じ操作を繰り返す

  • 埋め込み(embedding):ある構造の内部に別の構造を入れる

例えば「ハッチ状の帯模様」は、まず2本の平行線で枠を作り、その間に斜線を等間隔で繰り返していきます。

「格子模様」は、平行線を反復したあと、それに直交する線を埋め込みます。

「ダイヤ形模様」では、明示的な枠線がなくても、反復と交差によって抽象的な空間が成立しています。

重要なのは、これらが単純な手の動きの繰り返しではないという点です。
線は「どこに」「どの角度で」「どの間隔で」置かれるかが調整されています。

研究では、90%以上の断片が内部的な構造予測モデルと一致していました。
これは、配置が偶然ではなく、内部的な計画に従っていることを示します。


空間の規則性も存在していた

線の角度だけではありません。
交差点の距離配置も分析されました。

研究では**モランのI(Moran’s I)**という空間統計指標が用いられました。
これは、似た値が空間的に近くに集まっているかどうかを測る指標です。

結果、約3分の1の断片で、角度の似た交差点が一定距離で規則的に並んでいることが示されました。

つまり、単に直角が多いのではなく、
直角が一定間隔で配置される傾向があるのです。

これは、空間全体を見通しながら構成していた可能性を示します。


「文法」とは何を意味するのか

研究者たちが使った「幾何学的文法」という表現は、言語と同じという意味ではありません。

ここでいう文法とは、

・操作が組み合わさる
・階層的に構造ができる
・繰り返し可能な規則がある

という意味です。

例えば、平行線の反復が「ゼロレベル」の基盤を作り、その内部に別の線群が埋め込まれる。
これは階層構造です。

このような構造は、実験心理学で示されている人間の幾何学的直観と一致します。
人間は文化や教育に関係なく、直線・平行・直角といった基本的形状を区別し、組み合わせる能力を持つことが知られています。

本研究は、この能力が6万年前のホモ・サピエンスにも存在していたことを示唆します。


象徴以前の段階

この刻線が何を意味していたのかは、本研究では扱われていません。

しかし、意味以前に重要なのは、

「抽象的な形を操作し、空間内に構造を作る能力」があったことです。

これは象徴体系や記号体系の前提条件です。

線を引くことと、
線を構造化することは、まったく異なる行為です。

後者には、

・予測
・調整
・空間的計画
・階層構築

が必要です。

本研究の結論は明確です。

ハウイソンズ・ポートの刻線は、
偶発的な傷ではなく、
構造をもった視覚的構成でした。


幾何学はいつ始まったのか

私たちは学校で幾何学を学びます。
しかし、直角や平行の感覚は、教科書よりはるか以前から存在していたのかもしれません。

6万年前、卵殻に刻まれた線は、
「意味」より前に、
「構造」を持っていました。

それは、

形を整理する能力、
空間を秩序立てる能力、
そして規則を生み出す能力の証拠です。

この小さな卵殻片は、
人間の思考がすでに抽象化と階層化を行っていたことを静かに示しています。

幾何学は、定規から始まったのではありません。
それは、卵殻の表面に刻まれた一本の直線から始まっていたのかもしれません。

(出典:PLOS One DOI: 10.1371/journal.pone.0338509

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