- ケンブリッジ大学とMITの研究で、AI動画が増える時代に人が映像をどう見るかを調べた。
- 本物かどうかより「本物だと思うか」が視線や理解の仕方を大きく変えることが分かった。
- AI動画は本物っぽいと感じる人が多く、判定は平均66%くらいで、完全には見分けられないという結果だった。
この研究は、イギリスのケンブリッジ大学と、アメリカのマサチューセッツ工科大学の研究チームによって行われました。研究者たちは、AIによって作られた動画が当たり前に流通する時代において、人がそれらの映像をどのような目の動かし方で見ているのかを詳しく調べました。
私たちはもう「ただ眺めて」動画を見ていない
動画は長いあいだ、「起きた出来事をそのまま映すもの」と考えられてきました。
ニュース映像、監視カメラ、スポーツ中継、自然ドキュメンタリー。
動画は写真以上に、「現実の証拠」として信頼されるメディアでした。
しかし近年、ジェンエーアイ(生成AI)によって、実写とほとんど区別がつかない映像が作られるようになっています。テキストを入力するだけで、存在しない出来事の動画が生成される時代です。
この変化は、「AI動画は危険だ」という話だけにとどまりません。
もっと静かで、しかし深いところで、私たちの動画の見方そのものを変え始めています。
研究チームが注目したのは、
「人はAI動画を見分けられるか」
ではなく、
AI動画が存在する世界で、人はどのような“見方”をするようになるのか
という点でした。
目の動きから「考え方」をのぞく
研究では、40人の参加者が、実写動画とAI生成動画が混ざった80本の短い映像を視聴しました。
その間、参加者の視線の動きがアイトラッキング装置で記録されます。
参加者は二つの課題を行いました。
-
普通に動画を見て、内容を理解する
-
動画がAI生成かどうかを判断する
この二つの状態で、目の動きがどう変わるかを比較しました。
本物かどうかで、目はほとんど変わらない
まず、研究者たち自身も意外だった結果があります。
動画が本物か、AI生成かという違いだけでは、視線の動きに大きな差は見られませんでした。
つまり、人の目は、
「これはAI動画だ」
「これは実写だ」
という実際の正解には、あまり反応していなかったのです。
変化していたのは、別の要因でした。
「本物だと思ったかどうか」で目が変わる
視線の動きに強く影響していたのは、
参加者自身が、その動画を本物だと思ったかどうか
でした。
参加者が「本物っぽい」と感じた動画では、
-
視線の回数が多くなる
-
瞳孔がやや大きくなる(認知的な負荷が高い状態)
という傾向が見られました。
一方で、「AIっぽい」と感じた動画では、
-
ひとつひとつの場所を見る時間が短い
-
視線が広く散る
という特徴がありました。
これは、人が無意識のうちに、
-
本物だと思う動画 → 理解しようとする
-
AIだと思う動画 → 疑いながらスキャンする
という切り替えを行っていることを示しています。
AIかもしれないと思った瞬間、探索が始まる
参加者が「この動画はAIかもしれない」と意識すると、目の動きは明らかに変化します。
-
画面のあちこちを素早く見る
-
一点に集中しない
-
広い範囲をチェックする
研究者たちは、この状態を、
「理解のための視聴」から「異常探しの視聴」への切り替え
と解釈しています。
つまり私たちは、動画を見るとき、
-
何が起きているかを知りたい
というモードと、 -
どこかおかしくないかを探したい
というモードを行き来しているのです。
AI動画の見分けは「そこそこ」できる
参加者がAI動画を正しく判定できた割合は、平均で約66%でした。
ランダムに当てるよりは高いものの、完璧にはほど遠い数字です。
また、興味深い偏りも見られました。
-
AI動画を「本物」と誤判定するケースのほうがやや多い
-
本物動画を「AI」と誤判定するケースはそれより少ない
つまり、
AI動画は「本物として信じられやすい」
という傾向があります。
人は二つのタイプに分かれる
研究では、参加者に「どうやって判断したか」も尋ねています。
その結果、戦略は大きく二つに分かれました。
直感型
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なんとなく不自然
-
質感が人工的
-
完璧すぎる
論理型
-
物理法則に合っているか
-
物の動きが途中で変わっていないか
-
形が崩れていないか
論理型の人は、視線の動きがより規則的で、狙いを定めた探索をしていました。
直感型の人は、全体をざっと眺めながら判断する傾向がありました。
「現実」よりも「認識」が行動を変える
この研究が示している最大のポイントは、次の点です。
動画が本物かどうかよりも、
「本物かもしれない」と人が思うかどうかのほうが、
視線の動きと行動を強く左右する。
言い換えると、
私たちはすでに、
AI動画が存在するという事実だけで、
世界を疑いながら見る存在になりつつあるのです。
動画は「証拠」から「仮説」へ
これまで動画は、
「これは起きたことだ」
と示す証拠でした。
しかしこれからは、
「これは起きたかもしれない」
という仮説に近い位置づけになっていくのかもしれません。
動画を見るたびに、
-
本当だろうか
-
作られたものだろうか
と考える。
この態度は、私たちを慎重にする一方で、
純粋に映像を楽しうことを少し難しくする可能性もあります。
まとめとして
この研究は、AI動画の問題を「検出精度」の話だけに閉じません。
AI動画が増えることで、
人の視線の動きが変わり、
ものの見方そのものが変わり始めていることを示しています。
私たちはこれから、
動画をただ受け取る存在ではなく、
常に疑いながら解釈する存在になっていくのかもしれません。
それは、安心を失う変化でもあり、
同時に、考える力を求められる変化でもあります。
AI動画の時代とは、
「映像が変わった時代」ではなく、
人間の“見るという行為”が変わる時代なのかもしれません。

