ゲームに組み込まれた苦しみの意味

この記事の読みどころ
  • 苦しみは単なる失敗ではなく、ゲームの仕組みから生まれる深い体験として語られる。
  • 没入が崩れた瞬間、プレイヤーは「設計された体験だ」と気づき、主体性が芽生える契機になる。
  • 隠しルートや拒否エンディングを通じて、従うことと反抗することの倫理的苦しみや抵抗の可能性が示される。

苦しみは、ただの失敗体験なのか

ゲームにおける「苦しみ」は、たいてい避けるべきものとして語られます。
難しすぎるボス、何度も繰り返される失敗、理不尽に感じられる制限。
多くの場合、それはテンポを悪くし、楽しさを損なう要素だと考えられてきました。

しかし、本当にそうなのでしょうか。
この論文は、中国で開発されたアクションゲーム『ブラックミス:ウーコン(Black Myth: Wukong)』を題材に、「苦しみ」という体験が、プレイヤーの主体性を目覚めさせる可能性について問い直しています。

ここで扱われているのは、操作の失敗による一時的な不快感ではありません。
社会や制度、そしてゲームシステムそのものに組み込まれた「見えない力」によって生み出される、より深いレベルの苦しみです。


ゲームは自由を与えているようで、管理している

論文はまず、現代のビデオゲームを「高度に洗練された没入装置」として捉えます。
プレイヤーは自由に選択しているように感じますが、その行動の多くは、あらかじめ設計されたアルゴリズムの範囲内に収まっています。

攻撃のタイミング、進むルート、強化の順序。
それらは選択肢として提示されますが、完全に自由なものではありません。
むしろ、行動はデータとして回収され、管理され、最適化されていきます。

論文はこの状態を、生政治(バイオポリティクス)という概念で説明します。
人は自由に遊んでいるつもりで、知らないうちに「従順な身体」として振る舞わされている。
ゲームは娯楽であると同時に、管理の技術でもある、という視点です。


没入が壊れる瞬間に、何が起きるのか

では、プレイヤーは常にその構造に飲み込まれてしまうのでしょうか。
論文が注目するのは、没入が破壊される瞬間です。

『ブラックミス:ウーコン』は、非常に難易度の高いゲームです。
多くのボス戦では、何度も敗北し、自分の無力さを突きつけられます。
重要なのは、苦しみの中心が「死」そのものではない点です。

・なぜ勝てないのか
・なぜこの行動が許されないのか
・なぜ同じことを繰り返させられるのか

こうした疑問が積み重なることで、プレイヤーの意識はゲームの世界から一歩引き戻されます。
そのとき、ただ没入していた状態から、「これは設計された体験だ」と気づく状態へと移行します。

論文では、このズレの瞬間こそが、主体性が芽生える契機だと考えられています。


苦しみには二つのかたちがある

論文は、ドイツの哲学者マックス・シェーラーの感情現象学を手がかりに、苦しみを二つに分けて考えます。

ひとつは、「無力さの苦しみ」です。
巨大な仕組みに押しつぶされ、抵抗できないと感じる状態。
ただ耐えるしかなく、意味を見いだせない苦しみです。

もうひとつは、「成長の苦しみ」です。
同じ制限の中にありながら、それを意識し、向き合い、超えようとする過程で生まれる苦しみです。
ここでは、苦しみは主体の消失ではなく、むしろ主体の形成に関わります。

『ブラックミス:ウーコン』のプレイヤー体験は、後者に近いものとして描かれます。
繰り返される失敗の中で、プレイヤーは単に操作が上達するだけでなく、「自分はいま、何に従わされているのか」を考え始めるからです。


ウーコンを復活させることは、本当に正しいのか

物語の中で、プレイヤーは「天命の者」として、孫悟空を復活させる使命を与えられます。
この目的は、ほとんど疑われることなく提示され、ゲームを進めるためには従うしかありません。

しかし、物語が進むにつれて、天界の神々が信仰や生命を利用し、不死を維持している構造が明らかになります。
反抗する者は排除され、人も妖も、ただの資源として扱われる。

プレイヤーは、敵を倒しながらも、同時にその支配構造に加担していることに気づき始めます。
ここに生まれるのが、単なる難しさとは異なる、倫理的な苦しみです。

倒さなければ進めない。
しかし、倒すこと自体が暴力の再生産でもある。
この板挟みの状態が、プレイヤーを思考へと追い込みます。


隠されたルートが示すもの

論文が重要視するのは、ゲームに用意された「隠しルート」です。
表向きの目的に従っているだけでは到達できない展開。
それは、プレイヤーが物語やシステムを疑い、探索し、立ち止まることで初めて開かれます。

最終的に、プレイヤーは「金箍(きんこ)」を受け入れるかどうかという選択に直面します。
それは、秩序への服従か、拒否かを象徴する行為です。

拒否するエンディングは、明確な勝利や解放を与えません。
ただ、従わなかったという事実だけが残ります。
論文は、この「何も解決しない拒否」こそが、主体性の証だと捉えています。


苦しみは、抵抗の可能性として残る

この論文は、ゲームが直接的に政治的メッセージを発しているとは主張していません。
むしろ、苦しみを通じて、プレイヤー自身が考え始める余地をつくっている点に注目しています。

ゲームの中で経験される苦しみは、娯楽の失敗ではなく、思考を呼び起こす装置として機能している。
没入が破れたその瞬間、プレイヤーは「従っていた自分」に気づきます。

それは、小さく、個人的で、曖昧な気づきかもしれません。
しかし論文は、その曖昧さの中にこそ、生政治に対抗する潜在的な力があると示唆します。

苦しみは、解決されるためだけにあるのではない。
問いを残し、主体を立ち上げるために、そこにあるのかもしれません。

(出典:Philosophies

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