機械に「慈悲」は宿るのか

この記事の読みどころ
  • AIやロボットには心はないが、仏教の慈悲や無我の考えを設計思想として取り入れることが検討されている。
  • ロボットを道具としてではなく、人と関係をつくる存在として捉え、四無量心の慈・悲・喜・捨を設計の指針にする。
  • 現場では介護ロボットが尊厳と安心感を重視し、人の代わりにはならず人を支える役割を目指すが、擬人化の課題もある。

技術に「やさしさ」は組み込めるのか

AIやロボットが、人の言葉を理解し、感情に反応するようになってきました。
介護や医療、教育、宗教的な場面にまで入り込み、私たちは機械と、かつてないほど近い距離で関わるようになっています。

このとき、自然と浮かび上がってくる問いがあります。
それは、機械は人に対して「よい存在」になれるのか、という問いです。

この問題を、人文科学の立場から静かに掘り下げた研究があります。
本研究は、中国・南京にある東南大学 人文学院の研究者によって行われました。
AI技術そのものではなく、人と機械の関係性や、その背後にある倫理のあり方を見つめ直すことを目的としています。

西洋倫理だけでは捉えきれないもの

これまでAI倫理の議論では、功利主義や義務論、徳倫理といった西洋哲学の枠組みが中心でした。
「最大多数の幸福」や「守るべきルール」、「よい性格や徳」といった考え方は、AIの行動を設計するうえで大きな役割を果たしてきました。

しかし研究者は、こうした枠組みだけでは、人が実際に感じている苦しみや不安、孤独といった主観的な経験を十分に扱えないと指摘します。
AIがどれだけ正しい判断をしても、人が傷ついたままであれば、それは「よい関係」とは言えないからです。

仏教の「慈悲」という視点

そこでこの研究が参照するのが、仏教における「慈悲」という考え方です。
仏教では、人の生を苦しみと切り離せないものとして捉え、その苦しみをどう理解し、どう和らげるかを中心に思想が組み立てられてきました。

慈悲とは、単なる同情や優しさではありません。
他者の苦しみを正確に理解し、それを取り除こうとする姿勢そのものを指します。

さらに重要なのが、仏教における「無我」という考え方です。
固定された自分という存在を前提にせず、すべては関係の中で成り立っていると見る視点です。

この考え方は、人と機械の関係を考える際にも示唆的です。
ロボットを単なる道具としてではなく、関係性の一部として捉え直す余地が生まれるからです。

四つの心としての慈悲

論文では、仏教の「四無量心」が紹介されます。
慈、悲、喜、捨という四つの心のあり方です。

慈は、条件を付けずに幸福を願う姿勢です。
悲は、苦しみを見過ごさず、それを取り除こうとする関わりです。
喜は、他者の幸福を自分のことのように喜ぶ心です。
捨は、感情に振り回されず、偏りなく状況を見る落ち着きです。

研究者は、ロボットが人間と同じ感情を持つことはできないと明確に述べています。
しかし、これらを行動の原理や設計思想として取り入れることは可能だと考えます。

観音という道徳的なかたち

慈悲の具体的なイメージとして、研究では観音菩薩が取り上げられます。
観音は、苦しむ声を聞き、その都度姿を変えて救済するとされる存在です。

ここで重要なのは、観音が特定の誰かだけを救うのではなく、立場や属性を超えて関わる点です。
この平等性が、徳倫理における「道徳的模範」として機能します。

抽象的なルールではなく、どのような存在を目指すのかという具体像を示すことが、倫理設計には重要だと論文は示します。

介護ロボットという現実の場面

研究では、仏教的慈悲を応用する場面として、高齢者介護ロボットが検討されます。
高齢化が進む社会では、身体的な支援だけでなく、孤独や不安への配慮も欠かせません。

慈悲を基盤とした設計では、効率だけでなく、尊厳や安心感が重視されます。
利用者の感情の変化に配慮し、自律性を尊重し、プライバシーを守ることが重ねて強調されます。

同時に、ロボットは人の代わりになる存在ではないとも述べられています。
あくまで人のケアを支える存在であり、人間関係を置き換えるものではありません。

人工の慈悲が抱える難しさ

論文は、課題からも目をそらしません。
ロボットは本当の意味で感情を持たず、慈悲は機能的な振る舞いにとどまります。
また、擬人化が進むことで、過度な依存や操作の危険も生まれます。

それでも研究者は、仏教の無我の視点を用いて、問いを少しずらします。
内面に意図があるかどうかよりも、苦しみを減らす行為が一貫して行われるかが重要なのではないか、と。

技術と倫理のあいだに残る問い

この研究は、AIに心を与えようとするものではありません。
むしろ、技術が人と関わるとき、どのような姿勢で関わるべきかを問い直しています。

人と機械が共に生きる社会において、倫理は計算式ではなく、関係の中で形づくられていきます。
仏教の慈悲は、その関係を考えるための一つの静かな手がかりとして、ここに置かれています。

結論は、まだ開かれたままです。
けれど、技術が進むほどに、私たちは「できること」よりも、「どう関わるか」を問われ続けるのかもしれません。

(出典:Frontiers in Psychology DOI: 10.3389/fpsyg.2025.1583565

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