- 教育現場で「パッション」は文化によって価値の置き方や評価のされ方が違うことが示された。
- 3つの研究で、出願エッセイの語られ方と合否の関係、評価側の重視点、教師の意欲づけの実践にズレや違いが見られた。
- 内発的と外発的動機づけの二重の調整があり、文化によってどちらを強く前提にするかが変わる、という結論の示唆があった。
「パッション」は誰にとって本当に価値があるのか
――教育の現場で、文化は何を評価しているのか
「好きなことを見つけなさい」「情熱を持って取り組みなさい」。
教育の場で、こうした言葉を聞いたことがある人は少なくないはずです。特にアメリカでは、「パッション(情熱)」は学業やキャリアを導く重要な内面の力として語られてきました。自分の内側から湧き上がる興味や楽しさが、人を動かし、成果につながる。そうした考え方は、多くの教育理念や進路指導の前提になっています。
ところが、この論文が示しているのは、そうした直感とは少し異なる風景です。
文化が違うと、パッションの「使われ方」や「評価のされ方」は、かなり違ってくるのです。
この研究を行ったのは、ジョージタウン大学心理学部の研究チームです。研究者たちは、「教育の中でパッションは誰に、どのように価値づけられているのか」という問いを、三つの異なる角度から検討しました。
行動を動かす力と、評価される価値は同じではない
この研究の背景には、「文化的動機づけモデル(cultural models of motivation)」と呼ばれる考え方があります。
この理論では、文化によって人が行動する際の基本的な調整の仕方が異なると考えます。
個人主義的な文化では、人は自分を独立した存在として捉え、行動は内面の状態、たとえば興味や楽しさ、パッションによって調整されやすいとされます。一方、集団主義的な文化では、人は周囲との関係や役割、義務を重視し、行動は文脈や他者への配慮によって調整されやすいと考えられています。
これまでの研究では、たしかにパッションは、個人主義的な社会の方が学業成績をよく予測することが示されてきました。しかし、「予測に役立つこと」と「価値があるとみなされること」は、本当に同じなのでしょうか。
研究者たちは、この二つを切り分けて考える必要があると指摘します。
人々が「大切だと思っているもの」は、必ずしも実際に成果を生むものと一致しない。むしろ、日常の行動や判断を左右するのは、しばしば「そう信じられている価値」の方なのです。
研究1:出願エッセイに書かれた「パッション」
最初の研究では、アメリカの私立大学に提出された膨大な数の出願エッセイが分析されました。対象となったのは、6年間にわたる10万人以上の志願者による30万本以上のエッセイです。
研究者たちは、エッセイの中に「パッション」やその類義語がどれくらい登場するかを調べました。ここで注目されたのは、二つの文化的グループです。
一つは、アメリカ国籍を持つヨーロッパ系アメリカ人の志願者。もう一つは、中国、日本、韓国などからの東アジア系の留学生志願者です。
結果は予想通りの部分と、予想外の部分がありました。
まず、ヨーロッパ系アメリカ人の志願者は、東アジア系の志願者よりも、エッセイの中でパッションに言及する頻度が高かったのです。特に、自分自身を説明するエッセイや、志望理由を語るエッセイで、その差がはっきりと現れていました。
しかし、次に調べられた「合否」との関係では、意外な結果が出ました。
パッションについて多く語ることは、合格の可能性を高めなかったのです。それどころか、自分自身を説明するエッセイでは、パッションへの言及が多いほど、合格しにくくなる傾向さえ見られました。
つまり、「情熱的であることをアピールする」ことは、少なくともこの大学の入試においては、有利に働かなかったのです。
評価する側は、何を大切にしているのか
では、評価する側である教育者は、パッションをどう見ているのでしょうか。
それを調べたのが、研究2です。
この研究では、アメリカ、中国、日本の大学に所属する教授や研究者が対象となりました。参加者は、大学院生の志願者を評価するという仮想的な場面で、「どの資質をどれだけ重視するか」を順位づけする課題に取り組みました。
驚くべきことに、その結果は研究1とは正反対の方向を示していました。
中国と日本の研究者は、パッションを「最も重要な評価基準」として一位に置いたのです。一方、アメリカの研究者は、パッションを六位に位置づけました。
つまり、集団主義的とされる社会の教育者の方が、パッションを強く評価していたのです。
ここには、はっきりとしたズレがあります。
アメリカの学生はパッションを積極的にアピールするのに、アメリカの評価者はそれをそれほど重視していない。一方、東アジアの学生はパッションをあまり表に出さないのに、東アジアの評価者はそれを非常に重要視している。
評価する側と、評価される側の認識が、同じ文化の中ですら一致していない可能性が示されました。
研究3:教師は、どれだけ「情熱を高めよう」としているか
最後の研究では、視点がさらに広がります。
ここでは、OECDの国際学力調査PISAのデータを用いて、24の国や地域における中等教育の教師が分析されました。
研究者たちは、教師がどれだけ生徒のパッションを高めようとしているかを、「自分にもできると思わせる」「学ぶことの価値を伝える」「興味の低い生徒を動機づける」といった実践の自己報告から測定しました。
その結果、社会全体の個人主義の程度が高い国ほど、教師が生徒のパッションを高めようとする傾向は弱いことがわかりました。
逆に、集団主義的な国ほど、教師は意識的にパッションを育てようとしていたのです。
この傾向は、国の経済水準を考慮しても変わりませんでした。
なぜ、集団主義的な社会ほどパッションを重視するのか
これら三つの研究を通して浮かび上がるのは、単純な「個人主義=パッション重視、集団主義=義務重視」という図式ではありません。
研究者たちは、ここに「二重の動機づけ調整」という視点を提示します。
人の行動は、内発的動機づけ(楽しさや興味)と外発的動機づけ(義務や期待)の両方によって動かされています。文化によって、どちらか一方がすでに前提として強く働いている場合、あえて「もう一方」を補うことに価値が見出される可能性があるのです。
たとえば、集団主義的な社会では、義務や役割意識がすでに強く働いていると想定されます。その場合、パッションという内側からの力は、「欠けているピース」を補うものとして、強く評価されるのかもしれません。
一方、個人主義的な社会では、内面の動機づけは当たり前のものと見なされ、評価の場では別の資質が重視される可能性があります。
パッションは、どこでも同じ意味を持つわけではない
この論文が示しているのは、パッションという言葉の危うさでもあります。
同じ「情熱」という言葉でも、それが行動を動かす力なのか、評価の対象なのか、育てるべきものなのかは、文化や立場によって変わります。
教育の現場で語られる価値は、必ずしも普遍的ではありません。
誰が、どの場面で、何を前提として語っているのか。その文脈を見落とすと、「正しい努力」をしているつもりで、評価されないという行き違いが生まれてしまいます。
パッションは大切だ。
その言葉の裏に、どんな文化的な前提が隠れているのか。
この研究は、その問いを静かに突きつけています。
(出典:PsyArXiv)

