神は感じるものか、それとも知覚されるものか?

この記事の読みどころ
  • ミスティカル体験は、感情だけでなく何かが現れている知覚として理解できる可能性がある。
  • 愛や聖なるものの性質は「感じる自分の気持ち」ではなく、対象がそのように現れているという体験内容として捉えるべきだと説明される。
  • 科学で再現検証できなくても意味がないとは限らず、感覚以外の知覚として扱う可能性を探る考え方が示されている。

見えないものは、本当に「知覚」されているのか

私たちはふだん、「見る」「聞く」「触る」といった感覚を通じて、世界を知覚していると考えています。
赤い色、硬さ、音の高さ。そうした感覚的な性質があるからこそ、「そこに何かがある」と確信できます。

では、色も形も音もない対象を、私たちは知覚できるのでしょうか。
この問いは、神や超越的な存在を経験したと語る「ミスティカルな体験」を考えるとき、避けて通れません。

今回取り上げる研究は、こうしたミスティカル体験が、単なる感情や思い込みではなく、ある種の「知覚」として理解できるのではないかという立場を、哲学的に丁寧に擁護しています。


感情では説明しきれない体験がある

ミスティカル体験というと、「強い感動」「深い安心感」「愛や喜び」といった感情が中心だと思われがちです。
確かに、多くの体験報告には感情が伴います。

しかし論文は、感情だけでは説明できない側面があることを指摘します。

感情は、基本的に「主体の反応」です。
怖い、嬉しい、美しいと感じるかどうかは、人によって大きく異なります。
つまり、感情そのものは、外界の対象をそのまま写し取っているとは言えません。

ところがミスティカル体験では、「何かがそこに現れている」「自分がそれを受け取っている」という感覚が、非常に強く語られます。
しかもそれは、考えた結果でも、想像でもありません。
体験者はしばしば、「自分で作り出したものではない」と感じています。

この受動性は、感情や空想とは異なる特徴です。


「知覚」と呼べる体験の条件

論文が拠り所とするのは、ウィリアム・アルストンが提示した「知覚モデル」という考え方です。
これは、感覚器官を使わなくても、ある条件を満たせば「知覚」と呼べる体験がある、という立場です。

ミスティカル体験の中には、次のような特徴を持つものがあるとされます。

・体験には「どのような感じか」がはっきりある
・何かが「与えられている」「現れている」と感じられる
・体験者が自由に内容を操作できない
・思考や想像よりも、はるかに生々しく直接的である

これらは、私たちが日常で行っている視覚や聴覚の知覚と、構造的によく似ています。

重要なのは、感覚的である必要はないという点です。
色や形がなくても、「現れ方」が知覚的であれば、それは知覚の一種だと考えられる、というわけです。


愛や聖性は「感情」なのか「対象の性質」なのか

ここで重要な区別が導入されます。
それは、「体験の質」と「体験されている対象の性質」を分けて考えることです。

たとえば、ある体験の中で「愛を感じた」とします。
このとき、

・自分が愛を感じていること
・体験されている存在が「愛に満ちている」と感じられること

この二つは、同じではありません。

前者は感情です。
後者は、「対象がそのように現れている」という体験内容です。

論文は、ミスティカル体験においては、この後者が重要だと主張します。
つまり、愛や善、聖なるものといった性質は、感情の投影ではなく、対象の側に属するものとして経験されている、というわけです。

この区別をしないと、「感じたこと=対象そのもの」と混同してしまい、議論が崩れてしまいます。


なぜ「知っている」と感じてしまうのか

ミスティカル体験のもう一つの特徴は、強い確信を伴うことです。
体験者はしばしば、「これは本当だ」「疑いようがない」と感じます。

論文は、これを単なる心理的な圧力や感情の強さでは説明できないとします。
そこには、「信じるべきだ」という、独特の認識的な重みがある。

これは、道徳的な義務感とも、感情的な衝動とも異なります。
体験そのものが、ある種の認識的権威を帯びているのです。

この点も、感情だけに還元できない理由の一つとされています。


みんな同じ体験をしていないなら、知覚とは言えないのか

批判としてよく出されるのが、「体験内容が人や宗教によって違いすぎる」という点です。
赤色は多くの人が同じように認識できますが、神や超越的存在については、共通の記述が難しい。

論文は、ここで二重基準に注意すべきだと述べます。

触覚や味覚でさえ、細かい性質を完全に言葉にすることはできません。
それでも私たちは、それらを知覚だと疑いません。

また、同じ対象について異なる記述があるからといって、必ずしも矛盾しているとは限りません。
異なる伝統や背景が、解釈の違いを生んでいる可能性もあります。

論文は、少なくとも多くの伝統に共通する体験の要素として、

・聖なるもの
・圧倒的な超越性
・無限性

といった性質が挙げられると述べています。

すべてを一致させる必要はなく、部分的な共通性で十分だ、という立場です。


科学的に検証できないから無意味なのか

ミスティカル体験は、実験室で再現できません。
他者が同じものを同時に確認することもできません。

論文は、この点を否定せず、むしろ当然だと述べます。
もし対象が神や超越的存在であるなら、自然科学と同じ方法で検証できないのは、むしろ自然だというわけです。

対象の性質が、方法を制限する。
これは、哲学的には不自然な主張ではありません。

科学的に扱えないからといって、すべてが無意味になるわけではない。
その前提自体が、すでに特定の価値観に基づいている、と論文は示唆します。


感覚ではないが、知覚であるという可能性

この研究が最終的に示しているのは、次のような考え方です。

ミスティカル体験のすべてが知覚だとは言えない。
しかし、その中には、

・感情だけでは説明できず
・思考や想像とも異なり
・何かが「現れている」と感じられる

体験が確かに存在する。

それらは、感覚に依らない知覚として理解するのが、もっとも自然ではないか。

見えないからといって、知覚ではないと決めつける。
その態度自体を、私たちは問い直す必要があるのかもしれません。

(出典:Nova prisutnost DOI: 10.31192/np.23.2.3

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