すべてが意識をもつかもしれない、という前提について

この記事の読みどころ
  • 意識は主観的な経験をもつ能力で、動物やAIにもどこまであるとみなすかが問題です
  • これまでの「証拠が出るまで意識なし」という前提を見直し、その前提自体が誤りを生むことがあると指摘されます
  • 科学は理論と実践で前提を使い分け、倫理は広く配慮

何を「意識がある」と仮定するのかという問題

私たちは日常の中で、無意識のうちに「これは意識がある存在だ」「これは意識はないだろう」と判断しながら生きています。人間同士であれば、あまり迷うことはありません。しかし、相手が動物であったり、AIであったり、あるいは植物や菌類であった場合、その判断は急に不確かなものになります。

この論文が扱っているのは、「世界の中で、どこまでを意識のある存在として仮定すべきか」という問題です。そして重要なのは、その仮定が科学や倫理のあり方を大きく左右してしまうという点です。

これまでの前提は「意識はない、証拠が出るまでは」

歴史的に見ると、科学も倫理も、長いあいだ次のような前提を採用してきました。

「人間以外の存在には、意識はない。十分な証拠が出たときにだけ、例外的に認める」

この立場は、一見すると慎重で科学的に思えます。誤って「ないものをある」と判断するより、「あるかもしれないものをない」としておくほうが安全だ、という発想です。

しかし著者は、この前提が本当に妥当なのかを問い直します。なぜなら、この前提そのものが、研究の方向性や倫理的判断を強く縛ってきた可能性があるからです。

意識とは何か――ここでの定義

論文では、意識を「主観的な経験をもつ能力」と定義しています。
「それであることが、何かの感じを伴うかどうか」という、とても直感的な定義です。

見る、聞く、触れるといった感覚だけでなく、快や不快、苦しさや喜びといった感情も含まれます。重要なのは、単なる反応や情報処理ではなく、「内側からの経験」があるかどうかです。

なぜ意識の分布を考える必要があるのか

この問題は、科学的にも倫理的にも避けて通れません。

科学の側面では、どこに意識があるのかを考えることは、「そもそも意識とは何か」を理解するために欠かせません。自分たちの意識を理解するためにも、比較対象が必要だからです。

倫理の側面では、意識があるかどうかは、「苦しみうる存在かどうか」に直結します。もし苦しむことができるなら、その存在を単なる物として扱うことには問題が生じます。

それでも判断は難しい

意識の分布を判断することは、簡単ではありません。

一つは、「他者の心の問題」です。私たちは他人の意識ですら直接確認できません。行動や構造から推測するしかないのです。

もう一つは、「意識のハードプロブレム」です。なぜ物理的な仕組みから主観的な経験が生まれるのか、いまだ明確な答えはありません。

この二重の困難がある以上、「確実な証拠が出るまで待つ」という姿勢が生まれたのも無理はありません。

それでも、前提は選ばれている

しかし著者は指摘します。「前提を置かない」という選択は、実は存在しない、と。

「証拠が出るまでは意識なし」とするのも、ひとつの前提です。そしてその前提は、特定の種類の誤り――意識がある存在を見逃す誤り――を体系的に生みやすいのです。

考えうる五つの前提

論文では、従来の前提に代わるものとして、いくつかの選択肢が整理されます。

まず、「すべての動物は意識をもつ」という前提です。これは直感的には受け入れやすい一方、神経系をもたない動物など、境界の問題を抱えます。

次に、「すべての生きているものは意識をもつ」という前提です。植物や菌類も含まれますが、「生きている」とは何か自体が曖昧になります。

三つ目は、「神経系をもつ存在は意識をもつ」という前提です。ただし、神経系の定義をどうするかで範囲は大きく変わります。

四つ目は、「複雑な認知をもつ存在は意識をもつ」という前提です。これは動物だけでなく、将来のAIも含みうる一方、どこからが「複雑」なのかという問題が残ります。

最後に、「存在するものはすべて意識をもつ」という前提です。これは汎心論(パン・サイキズム)に近い考え方ですが、直感的には強い抵抗を感じる人も多いでしょう。

科学における「理論」と「実践」の違い

著者が強調する重要な点の一つが、「理論としての前提」と「実践としての前提」を区別すべきだ、という主張です。

理論としては、現時点の証拠を踏まえ、慎重でやや限定的な前提を採ることが妥当かもしれません。

しかし実践としては、あえて広めの前提を置いたほうが、研究が前に進む場合があります。「意識があるかどうか」を問うより、「どのような意識か」を問うほうが、問いが豊かになるからです。

倫理では事情が逆転する

倫理の領域では、事情が少し異なります。

理論的には、「意識がある可能性が少しでもあるなら、一定の配慮をすべきだ」という考え方が強く支持されます。意識がある存在を見逃すことの害は、意識のない存在を配慮することの害よりも、はるかに大きい場合が多いからです。

一方で、実践では、あまりに広い範囲を一度に配慮対象にすると、社会がついてこられないという問題も生じます。

理想と現実のあいだで

この論文全体を通して繰り返されるのは、「どれか一つの前提が常に正しいわけではない」という姿勢です。

科学でも倫理でも、理論と実践、理想と現実はしばしばズレます。そのズレを無理に埋めようとするのではなく、文脈ごとに、どの前提が何の役に立つのかを考えることが大切だ、と著者は述べます。

すべてを否定する前提の危うさ

それでも一つ、明確に否定されている立場があります。それは、「証拠が出るまでは、意識はないとみなす」という一律の態度です。

この態度は、科学の進展を遅らせ、倫理的な見落としを積み重ねてきた可能性があります。少なくとも、唯一の正解として採用し続ける理由は、もはやないのです。

結論を閉じないために

この論文は、「どこまでが意識をもつのか」という問いに、最終的な答えを与えるものではありません。むしろ、「その問いにどう向き合うべきか」を整理する論文です。

前提は、発見されるものではなく、選ばれるものです。そしてその選択は、私たちの科学と倫理のかたちを、静かに決定づけています。

どこまでを意識のある存在として扱うのか。
その問いは、これからも開かれたまま、私たちに考える余地を残しています。

(出典:Frontiers in Psychology DOI: 10.3389/fpsyg.2025.1700354

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