科学への信頼が、かえって判断を鈍らせるとき

この記事の読みどころ
  • 科学へ従うとは何かを整理すると、コンセンサスを真実の指標にする考え方には注意が必要だという点が指摘されます。
  • ゲートキーピングの失敗が、早すぎる・遅すぎるコンセンサスやその修正の遅速につながり、科学の信頼性を損なうと説明されています。
  • 非専門家は別の証拠として、周囲の状況や利害関係の影響を見て、エピステミック・ヴィジランスと謙虚さを持って科学と向き合うべきだと提案されています。

科学に従うとは、どういうことなのか

「サイエンスに従え」「科学を信じろ」。
近年、こうした言葉は、社会のさまざまな場面で強く使われるようになりました。特にパンデミックの時期、多くの国で「科学への信頼」が市民の義務であるかのように語られる場面が見られました。

しかし、この論文が問いかけているのは、そうした態度が本当に常に妥当なのか、という点です。
科学は重要な知の営みであり、専門家の知見に頼ることは現代社会において不可欠です。けれどもそれは、「無条件に従うこと」と同じなのでしょうか。

論文は、**科学への過剰な服従(エピステミック・ディファレンス)**が、むしろ合理的でない場合があることを、哲学的に丁寧に論じています。


科学への「ディファレンス」とは何を意味するのか

まず論文は、「科学に従う」とは何を意味するのかを整理します。
個々の科学者に従うことなのか。科学的な考え方を尊重することなのか。それとも、科学的コンセンサス(専門家集団の合意)を真実の指標として受け取ることなのか。

著者は、この中でも特に重要なのは三つ目、
「ある命題について科学的コンセンサスがあるなら、それは正しいと考える」
という推論の仕方だと指摘します。

現代社会では、知識は高度に専門化しています。私たちはほとんどすべての分野で専門家に依存せざるを得ません。そのため、「専門家の合意があるなら信じる」という態度は、日常的に使われています。

ただし問題は、そのコンセンサスがどのように作られたのかです。


科学を形づくる「ゲートキーピング」

論文の中心概念がゲートキーピングです。
これは、科学の世界で「誰が」「何を」「どのように」議論できるかを決める仕組み全体を指します。

たとえば、

・どの研究テーマが正当とされるか
・どの方法が認められるか
・どの論文が査読を通過するか
・どの研究者の発言が注目されるか

こうした判断は、科学の質を守るために必要なものでもあります。無制限にすべてを受け入れれば、科学は成り立ちません。

しかし論文は、このゲートキーピングがうまく機能しない場合があることに注目します。


ゲートキーピングの二つの失敗

ゲートキーピングの失敗には、大きく二つの型があります。

一つは、厳しすぎる場合です。
本来検討されるべき理論やデータ、異論が排除され、議論の場に出る前に封じられてしまう状態です。

もう一つは、緩すぎる場合です。
科学的に妥当でない主張や、利害関係によって生み出された研究が、正当な選択肢として扱われ続けてしまう状態です。

どちらの場合も、科学にとって重要な多様な視点の相互批判が損なわれます。


コンセンサスが歪む四つのパターン

論文は、こうしたゲートキーピングの失敗が、科学的コンセンサスにどのような歪みを生むのかを、四つの型に整理しています。

早すぎるコンセンサス

議論が十分に尽くされる前に、「結論が出た」と扱われてしまう状態です。
異論が封じられ、表面的な一致が「確立された知」と見なされます。

遅すぎるコンセンサス

本来は合意に至るだけの証拠がそろっているのに、不適切な理論が温存され、合意形成が不必要に引き延ばされる状態です。

早すぎるコンセンサス修正

確立された理論が、十分でない証拠や非科学的圧力によって、性急に覆されてしまう場合です。

遅すぎるコンセンサス修正

新しい有力な証拠があるにもかかわらず、既存の枠組みが守られすぎて、見直しが長く遅れる状態です。

論文は、これらを**「退行的なコンセンサスの動態」**と呼び、科学の信頼性を内側から損なう要因だと指摘します。


非専門家は、ただ従うしかないのか

ここで重要になるのが、一般の人、つまり非専門家の立場です。

「専門家でない人が、科学に疑問を持つのは傲慢ではないか」
こうした反論はよく聞かれます。

論文は、この考えに慎重な修正を加えます。
非専門家は確かに、分野固有のデータや理論を評価する力は限られています。しかし一方で、別の種類の証拠を見ることはできると論じます。


非専門家が持ちうる「別の証拠」

それは、

・強い同調圧力が存在していないか
・異論を唱えた研究者が不当に制裁されていないか
・政治的・経済的な利害が研究に影響していないか
・議論が異様なスピードで「決着」していないか

といった、科学を取り巻く社会的状況です。

こうした情報は、専門的な実験データとは別の次元にありますが、
「そのコンセンサスが信頼できるかどうか」を判断するうえでは重要な手がかりになります。

論文は、これを第二次的証拠と位置づけ、非専門家が合理的に評価しうる対象だとしています。


疑うことと、否定することは違う

著者が強調しているのは、
「科学を全面的に否定せよ」という主張ではありません。

問題にしているのは、
疑う余地のないものとして扱われる科学です。

証拠が偏っている可能性がある。
議論が抑圧されているかもしれない。
そうした兆候があるなら、確信の度合いを少し下げることは、必ずしも非合理ではありません。

それは反科学ではなく、慎重さです。


科学と向き合うために必要な二つの態度

論文は最後に、非専門家に求められる姿勢として、二つの態度を挙げています。

一つは、エピステミック・ヴィジランス(認識的警戒心)
科学が常に理想通りに機能するわけではないことを知り、状況を観察する姿勢です。

もう一つは、エピステミック・ヒューミリティ(認識的謙虚さ)
自分の判断にも限界があることを理解し、断定を急がない姿勢です。

盲目的に従うことでも、全面的に拒否することでもなく、
揺れながら考え続けること。

この論文は、科学との健全な関係とは、そのような不安定さを引き受けることなのだと、静かに示しています。

(出典:Synthese DOI: 10.1007/s11229-025-05423-7

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