- 意識と注意はいつも一緒とは限らず、見えていた情報が多くても注意が追いつかないことがある。
- 注意していない体験は内省だけではわからず、あとから記憶を思い出すことで気づくことがある。
- 記憶は体験を再構成するもので完全ではないが、内省だけでは分からない部分を照らしてくれる。
本研究は、アメリカ・コーネル大学の哲学・認識論および意識研究分野の研究者によって行われ、意識と注意、そして記憶の関係を理論的に検討したものです。
意識と注意は、いつも一緒なのか
私たちはふだん、次のように考えています。
何かを意識しているとき、その対象には注意が向いている。
注意していないものは、意識されていない。
この考え方は直感的で、日常生活にもよく合っているように見えます。
しかし、少し立ち止まって自分の経験を振り返ると、違和感が生じます。
たとえば、映画に集中しているとき、エアコンの音や遠くの車の音にほとんど注意を向けていないことがあります。それでも、その音が急に止まると、
「そういえば、さっきまで音がしていた」
と気づくことがあります。
服が肌に触れている感覚や、椅子に座っている圧迫感も同様です。普段は意識の前面に出てきませんが、「まったく何も感じていなかった」と言い切るのは難しいでしょう。
こうした経験は、
注意していなくても、何らかの意識体験はすでに起こっている
という可能性を示唆します。
意識は、注意よりも「多い」かもしれない
この考えを理論化したものが、意識のあふれ仮説です。
この仮説は、
意識体験は、注意やワーキングメモリよりも大きな容量をもっている
私たちは、その一部にしかアクセスできない
と主張します。
心理学の古典的実験では、多数の文字を一瞬だけ見せると、人はすべてを報告できません。しかし、表示後に「どの行を答えてください」と合図を出すと、指定された行については多くの文字を正確に答えられます。
この結果は、
見えていた情報は多かったが、
注意と報告の能力が追いつかなかった
という解釈を可能にします。
つまり、「見えていなかった」のではなく、「注意していなかった」だけかもしれない、ということです。
ここで生まれる根本的な問題
もし、注意していない意識体験があるとしたら、次の問いが生じます。
私たちは、それをどうやって知っているのか。
私たちは通常、自分の意識状態を「内省」によって知ると考えています。
内省とは、「いまの自分の心の状態に注意を向けること」です。
ところが、ここに矛盾があります。
-
意識のあふれ → 注意していない体験
-
内省 → 注意が必要
つまり、
注意していない体験を、
注意を使って知ることはできない
という構造になってしまいます。
「内省の瞬き」という発想
研究では、この矛盾を
内省の瞬き
と呼びます。
注意していない体験を知ろうとした瞬間、
注意が向いてしまい、
もはや「注意していない体験」ではなくなってしまう。
まるで、カメラを向けた瞬間に被写体が消えるような状態です。
このため、
注意していない意識体験は、その瞬間には直接観察できない
という結論になります。
では、私たちはどうやって知っているのか
研究が提示する答えは明確です。
注意していない意識体験は、内省ではなく「記憶」によって知られる。
つまり、
体験しているその瞬間には気づけないが、
あとから思い出すことで気づく
という形です。
エアコンの音の例で言えば、
音が止まった瞬間に「違和感」を覚え、
直前の状態を思い出すことで、
「さっきまで音があった」
と理解します。
ここで参照しているのは、直前の体験の記憶です。
記憶はコピーではないが、無意味でもない
心理学では、記憶は「録画の再生」ではなく、構成的なプロセスだと考えられています。
思い出すとき、私たちは
-
体験の痕跡
-
これまでの知識
-
予測
を組み合わせて内容を再構成します。
そのため、記憶は完全に正確ではありません。
しかし、研究は次の点を強調します。
構成的であることは、
信頼できないことと同じではない。
もし記憶が根本的に信頼できないなら、私たちは日常生活をほとんど成り立たせられないはずです。現実には、私たちは記憶に基づいて行動し、かなりの確率でうまくやれています。
夢の経験が示すヒント
このモデルを理解するうえで重要なのが、夢です。
多くの場合、私たちは夢を見ている最中に、
「これは夢だ」
とは気づいていません。
それでも、目が覚めたあとに、
「さっきこんな夢を見た」
と語ることができます。
つまり、夢の体験は、あとから記憶によって知られる意識体験です。
注意できなかった意識体験を、記憶によって知るという構造は、すでに私たちが日常的に経験しているものなのです。
「意識のあふれは幻想だ」という見方への再考
一部の立場では、
注意していない意識体験など存在しない
あるように思えるのは錯覚だ
と主張します。
しかし、今回の研究はこの見方を次のように捉え直します。
意識のあふれを疑うことは、
実質的には「記憶が信用できない」と言っているのと同じである。
記憶全般を疑うには、非常に強い理由が必要になります。
そのため、研究は、
意識のあふれを否定する側のほうが、より重い説明責任を負う
と論じます。
記憶は、内省が届かない場所を照らす
この研究の大きなメッセージは、次の点に集約されます。
意識についての理解は、
内省だけでは不十分である。
記憶という視点を組み込むことで、はじめて見えてくる領域がある。
内省が「瞬き」して見えなくなるとき、
記憶がその続きを照らしている。
意識は、私たちが思っているよりも、
静かで、広く、そして間接的なかたちで知られているのかもしれません。
(出典:PhilArchive)

