- 計算は決まった規則に従う行為で、結果は規則が決まっていれば必然だというが、現実には言語や数学の使われ方で意味が変わると考えられる。
- 言葉の意味は使われ方によって決まり、理解とは規則に従って行為できること、共同体の中で同じように振る舞えることだと説明される。
- チューリングの機械は「計算する人間」を単純化したモデルで、知能はどう動くかの振る舞いで判断されるべきで、意味・知能は使われ方の中に現れると結論づけられる。
計算はゲームなのか、思考は行為なのか
この研究は、イタリアのナポリ・フェデリコ2世大学 人文学部によるものです。
人間は「考える」とき、いったい何をしているのでしょうか。
頭の中で何かを眺めているのでしょうか。それとも、規則に従って何かを操作しているのでしょうか。
この論文は、20世紀を代表する二人の思想家、ウィトゲンシュタインとチューリングの対話を軸に、「計算」「思考」「知能」という言葉の意味を、ゲームという視点から見直しています。
そこで問われているのは、機械は考えられるのか、という問いそのものよりも、私たちはそもそも何を「考える」と呼んでいるのか、という問題です。
計算は実験ではなく、規則に従う行為である
ウィトゲンシュタインは初期の思想において、言語や数学を「計算」にたとえて考えていました。
計算とは、あらかじめ定められた規則に従って記号を操作する行為です。
重要なのは、計算は実験ではない、という点です。
実験では、結果がどうなるかはやってみなければ分かりません。
しかし計算では、規則が決まっている以上、正しく実行すれば結果は必然的に決まります。
この見方では、数学の理解とは、特別な直観やひらめきではなく、
規則を正しく使えることそのものだと考えられます。
ただし、ウィトゲンシュタイン自身は次第に、この考え方に違和感を持つようになります。
現実の数学や言語の使われ方は、そんなに透明で機械的なものではないからです。
言語は「使われること」で意味をもつ
後期のウィトゲンシュタインは、言語や数学を「言語ゲーム」として捉えるようになります。
ここでいうゲームとは、勝ち負けを競うものではなく、一定の規則のもとで行われる活動を指します。
言葉の意味は、頭の中にある何かによって決まるのではありません。
その言葉が、どのような場面で、どのように使われているかによって意味をもつのです。
数学も同様です。
記号そのものが意味をもつのではなく、それがどのように使われ、どのような実践と結びついているかが重要になります。
この考え方では、「理解する」とは、
ある規則に従って行為できること、共同体の中で同じように振る舞えることを意味します。
チューリングの機械は「計算する人間」だった
チューリングは、計算可能性を定義するために、いわゆるチューリング・マシンを考案しました。
しかしこの論文が強調するのは、チューリングが最初から「機械」を出発点にしていたわけではない、という点です。
彼が問いかけたのは、「人間が計算するとき、実際に何をしているのか」という問題でした。
その分析の結果として、人間の計算行為を形式化したものがチューリング・マシンだったのです。
ウィトゲンシュタインは、この点を非常に鋭く捉えています。
彼はチューリングの機械を、「計算する人間そのもの」と表現しています。
つまり、チューリング・マシンは、
人間の思考を置き換える存在ではなく、
人間の計算という行為を極限まで単純化したモデルだった、ということになります。
規則が破綻するとき、ゲームは止まる
ウィトゲンシュタインとチューリングが共通して関心をもっていたテーマの一つが、「矛盾」です。
矛盾とは、論理的におかしな文が存在することではありません。
問題なのは、矛盾があると、何をしていいのか分からなくなることです。
ウィトゲンシュタインは、矛盾を「ゲームが詰まる状態」にたとえています。
規則に従って進んでいたはずなのに、次に何をすればよいか決められなくなる。
ここで重要なのは、矛盾が「真理」を壊すというより、
行為の流れを壊すという点です。
論理や数学は、意味や真理の体系というより、
私たちが一緒にうまく振る舞うための実践の枠組みなのだ、という見方がここにあります。
計算と実験の違いはどこにあるのか
ケンブリッジで行われた1939年の講義では、
ウィトゲンシュタインとチューリングが「計算は実験なのか」という問題をめぐって議論しています。
一見すると、計算も実験も「やってみて結果を見る」という点で似ています。
しかしウィトゲンシュタインは、両者は本質的に異なると考えます。
計算では、正しい規則に従っていれば、結果は最初から決まっています。
実験では、結果は規則の正しさを試すものです。
計算は、結果を発見するというより、
私たちがどのように数や記号を扱うかを確定させる行為なのです。
知能はどこにあるのか
戦後、チューリングは「機械は考えられるか」という問いを、模倣ゲームという形で提示します。
これは、機械が人間と区別できない応答を返せるかどうかを問うゲームです。
このゲームのポイントは、
知能の「正体」を定義しようとしないところにあります。
チューリングは、
「知能とは何か」を説明する代わりに、
知能があるように振る舞えるかを問題にします。
この姿勢は、言葉の意味は使い方にある、と考えたウィトゲンシュタインの立場と深く響き合っています。
意味と知能は、使われることで立ち現れる
この論文は、最終的な結論を断定しません。
しかし一つの方向性は、静かに示されています。
意味も、理解も、知能も、
どこかに隠れている「実体」ではありません。
それらは、規則に従い、失敗し、修正し、他者と関わる中で、行為として現れるものです。
計算はゲームであり、
思考は活動であり、
知能は使用の中で呼び出されるものなのかもしれません。
この視点は、
「機械は考えられるか」という問いを、
「私たちは何を考えると呼んでいるのか」という問いへと、反転させています。
(出典:Philosophies)

