秘密を守るべきか、通報すべきか

この記事の読みどころ
  • 守秘はクライアントが心を開くために大事で、 autonomy・beneficence・nonmaleficence が倫理の基盤です
  • インドは通報義務が非常に強く、守秘の裁量はほぼ認められません
  • 改革として段階的な通報や専門家の裁量、教育強化、国際ガイドラインなどが提案されています

秘密を守ることと、通報することのあいだで

心理療法をめぐる倫理と法律の世界的ジレンマ

心理療法の場では、人はふだん誰にも話せない経験や感情を言葉にします。
その前提となっているのが、「この話は外に漏れない」という信頼、つまり守秘です。

この論文は、心理療法における守秘義務が、法律による通報義務によってどのように揺さぶられているのかを、世界各国の制度を比較しながら論じたものです。
研究は、インドのマリアン・カレッジ(Marian College Kuttikkanam Autonomous)法学部・健康福祉学部の研究者によって行われています。


心理療法における「守秘」は、なぜ重要なのか

心理療法の核心にあるのは守秘です。
クライアントは、自分の体験や苦しみが守られると信じてはじめて、心を開きます。

論文では、守秘の倫理的な基盤として、次の三つが挙げられています。

  • 自律(オートノミー)
    自分の情報を誰に、どのように知られるかを決める権利

  • 善行(ベネフィセンス)
    クライアントの福祉や回復を促進すること

  • 無危害(ノンマレフィセンス)
    不必要な害を与えないこと

守秘は単なる手続きではなく、クライアントの尊厳や主体性を回復する行為だと論文は位置づけています。
特に精神疾患へのスティグマが残る社会では、「話しても大丈夫だ」という確信が、支援への入口になります。


しかし法律は、ときに守秘を許さない

一方で、多くの国では、心理職に通報義務を課す法律が存在します。
典型的なのは、児童虐待、性的虐待、自殺や他害の切迫した危険に関する情報です。

論文は、この「倫理」と「法律」の衝突が、特定の国に限らないグローバルな問題であることを示します。


5つの国・地域を比較すると、何が見えてくるのか

この論文では、次の5つの法制度が比較されています。

  • インド

  • アメリカ

  • イギリス

  • オーストラリア

  • カナダ

これらは、法体系や文化が異なり、守秘と通報のバランスの取り方にも大きな差があります。

強制が最も強い制度:インド

インドでは、**児童の性的虐待防止法(POCSO法)**により、
「誰であっても」虐待の疑いを知った場合、通報が義務づけられています。

心理職にも例外はなく、通報しなければ処罰の対象になります。
守秘の裁量はほぼ認められていません。

判例でバランスを取る制度:アメリカ・オーストラリア

アメリカでは、州法による通報義務がある一方で、
判例によって「差し迫った危険」がある場合に限定した開示が認められてきました。

オーストラリアも州によって差がありますが、一定の専門的判断の余地が残されています。

守秘を重視する制度:イギリス・カナダ

イギリスとカナダでは、歴史的に守秘と専門家裁量が重視されてきました。
ただし、イギリスでは近年、制度改革によって通報義務が強化されつつあります。


実際の臨床現場で何が起きているのか

論文では、制度の違いが現場でどのような影響をもたらすかを、具体的な事例で示しています。

インドの事例

14歳のクライアントが性的被害を受けていると打ち明け、
「誰にも言わないでほしい」と訴えたケース。

法律上、通報しなければならないため、
セラピストは警察に届け出を行い、結果として治療は中断されます。

研究では、このような制度が、若者を相談から遠ざけている可能性が指摘されています。

イギリスの事例

自殺念慮を語る成人クライアントに対し、
「差し迫った危険がない」と判断したセラピストが、通報せず治療を継続したケース。

これは倫理的にも法的にも認められた判断であり、
信頼関係を保ったまま支援が続けられました。


通報義務がもたらす心理的・社会的影響

論文は、通報義務がもつ意図しない副作用にも焦点を当てています。

  • 支援を求める行動が減る

  • クライアントと専門家の信頼が損なわれる

  • 専門職が強い不安や倫理的葛藤を抱える

  • 過剰通報によって支援システムが圧迫される

特に、社会的に周縁化されてきた人々ほど、
「話したら通報されるかもしれない」という不安から支援を避ける傾向が強いとされています。


論文が提案する改革の方向性

この論文は、通報義務そのものを否定しているわけではありません。
問題は「一律で硬直した形」で適用されることだと述べています。

提案されているのは、次のような枠組みです。

  • 段階的な通報制度

  • 専門職の判断を認めた構造化された裁量

  • 倫理教育と相談体制の充実

  • 国境を越えるオンライン心理療法に対応した国際的ガイドライン

守秘か安全か、という二者択一ではなく、
両立を目指す制度設計が必要だという立場です。


守ることと、介入することのあいだで

論文の結論は、非常に静かなものです。

守秘と通報の対立は、
信頼と責任、個人の声と社会の安全という、
私たち自身の価値観を映し出す問題だと述べています。

倫理とは、単純なルールではなく、
状況の複雑さに向き合い続ける成熟のプロセスなのかもしれません。

心理療法の現場が、
「法の代理人」ではなく「癒やしの場」であり続けるために、
どのような制度が必要なのか。

この論文は、その問いを読者に残しています。

(出典:Frontiers in Psychology DOI: 10.3389/fpsyg.2025.1665158

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