- 新しい娯楽は「危険だ」とみなされることがあり、ゲーミング障害の議論にもモラルパニックが関係していると検証された。
- 韓国の2,000人の調査では、若者を守る責任感が強いほどゲームを否定的に受け取り、病気として扱うことに賛成しやすいことが分かった。
- 規制より理解を深めることが大事だと示唆され、善意のモラルパニックでも検証が不十分だと過度な病理化が起こりやすいと指摘された。
新しい娯楽が「危険」に見えるとき
私たちは、新しい文化や技術が広がるたびに、同じような不安を繰り返してきました。マンガ、ロック音楽、テレビ、インターネット。いずれも登場当初は「若者をだめにする」「社会を壊す」と語られ、強い警戒の目で見られてきました。デジタルゲームも、その流れの延長線上にあります。
世界保健機関が「ゲーミング障害」を正式な疾病分類に含めたことで、ゲームは単なる娯楽ではなく、「病気を引き起こす存在」として語られる機会が一気に増えました。しかし、この判断は純粋に医学的・科学的な根拠だけから生まれたものなのでしょうか。それとも、社会全体に広がる別の力が、静かに影響しているのでしょうか。
ゲーミング障害とモラルパニックという視点
この研究は、ゲーミング障害をめぐる社会的合意の背後に、「モラルパニック(moral panic)」と呼ばれる現象がどのように関与しているのかを、実証的に検討しています。モラルパニックとは、ある対象が社会的価値や秩序を脅かす存在だとみなされ、実際の被害や科学的証拠以上に、不安や恐れが膨らんでいく状態を指します。
モラルパニックの特徴は、「予防」が先に立つことです。何かが起こる前に、「起こるかもしれない危険」を理由として規制や排除が進みます。その過程では、冷静な検証よりも、感情的な語りや道徳的な正しさが重視されやすくなります。研究者たちは、ゲーミング障害をめぐる議論の中に、こうした構図が入り込んでいるのではないかと考えました。
韓国社会を対象にした大規模調査
研究は、韓国の15歳から60歳までの一般市民2,000人を対象に行われました。年齢や性別の偏りを抑えた調査設計が採用され、ゲームをよくする人から、まったくしない人までが含まれています。
研究者たちが注目したのは、次の三つの要素です。一つ目は「若者を守る責任感」です。子どもや若者は有害なメディアに影響されやすく、大人が積極的に介入すべきだと考える傾向を測定しました。二つ目は「若者そのものへの否定的な見方」です。現代の若者は昔より問題行動が多い、成熟していない、といった認識がどの程度共有されているかを調べました。三つ目は、デジタルゲームに対する否定的な態度です。
そして、これらが「ゲーミング障害を病気として扱うことへの賛成」と、どのようにつながっているのかが分析されました。
「守る責任」が強いほどゲームは危険に見える
分析の結果、はっきりとした傾向が示されました。若者を守る責任を強く感じている人ほど、デジタルゲームに否定的な態度を持ちやすく、ゲーミング障害を病気として扱うことにも賛成しやすかったのです。
重要なのは、この影響の強さです。若者そのものへの否定的な感情よりも、「守らなければならない」という責任感のほうが、はるかに強く作用していました。つまり、若者が嫌いだから規制したいというより、「守るためには制限が必要だ」という思いが、ゲームへの警戒心を押し上げていたのです。
ゲームへの否定感情が橋渡しになる
さらに研究では、デジタルゲームへの否定的態度が「媒介役」を果たしていることが示されました。若者を守る責任感や、若者への否定的な見方は、それ自体が直接、病理化への賛成を生むわけではありません。それらの感情がまずゲームへの否定的イメージを強め、その結果として、「これは病気として扱うべきだ」という判断につながっていたのです。
社会的な不安や道徳的懸念は、そのまま政策意識に変わるのではなく、「ゲームは危険だ」「ゲームは害をもたらす」という具体的なイメージを経由して、形を持ち始めます。ここに、モラルパニックの心理的な道筋が見えてきます。
年齢・性別・ゲーム経験の影響
属性による違いも確認されました。女性であること、年齢が高いこと、ゲームをあまりしないことは、いずれもゲームへの否定的態度と弱く関連していました。また、ゲームをよくする人ほど、ゲーミング障害の病理化に慎重な傾向も見られました。
これは、ゲームとの距離が遠いほど、危険性が大きく感じられやすいことを示唆しています。未知のものは、理解される前に恐れられる。その古くからある心理が、ここでも繰り返されているように見えます。
モラルパニックは善意から生まれる
この研究が示しているのは、モラルパニックが必ずしも悪意から生まれるわけではない、という点です。むしろ、その中心には「若者を守りたい」「社会を良くしたい」という善意があります。しかし、その善意が、十分な検証を経ずに結びついたとき、文化や行動が過剰に病理化される可能性が生まれます。
ゲームをめぐる議論が感情的になりやすいのは、そこに道徳や責任、世代間の価値観が絡み合っているからです。その結果として、ゲームそのものが持つ多様な側面や、個々の利用文脈が見えにくくなってしまいます。
規制よりも理解が必要な理由
研究者たちは、こうした結果から、拙速な規制よりも、世代間の理解を深める取り組みの重要性を示唆しています。デジタルリテラシーを高め、ゲームがどのように使われ、どのような意味を持っているのかを共有することが、不安そのものを和らげる可能性があるからです。
ゲーミング障害という概念をどう扱うかは、医学や心理学だけの問題ではありません。それは、私たちが新しい文化とどう向き合い、どこまでを「守るべき危険」とみなすのかという、社会全体の姿勢を映し出しています。
社会が不安をどう扱うかという問い
この研究は、ゲームの是非を単純に決めるものではありません。むしろ、「なぜ私たちは不安になるのか」「その不安はどのように形を持つのか」という問いを投げかけています。
デジタルゲームに限らず、新しい技術や文化は、これからも現れ続けます。そのたびに私たちは、守るべきものと、理解すべきものの境界を問い直すことになるでしょう。ゲーミング障害をめぐる議論は、その縮図なのかもしれません。
(出典:Frontiers in Psychology DOI: 10.3389/fpsyg.2025.1614807)

