- 共有されたつらい体験はアイデンティティ・フュージョンを高めるが、それが長く続くわけではない。
- 危機の最中は一体感が強まり、国や価値への結びつきが深まることがある。
- 時間が経つにつれて結びつきは弱まりやすく、共有されていると感じることが大切だ。
なぜ「つらい体験」は人を強く結びつけるのか
そして、その結びつきは永遠ではない
私たちは、災害や危機、戦争やパンデミックといった出来事を経験するとき、「みんな同じ状況に置かれている」という感覚を強く抱くことがあります。
見知らぬ人同士でも、どこか一体感が生まれ、国や社会、あるいは大切にしている価値と自分自身が強く結びついたように感じることがあります。
この論文が扱っているのは、そうした状態を説明する心理学の概念である**アイデンティティ・フュージョン(identity fusion)**です。
アイデンティティ・フュージョンとは、「自分自身」と「集団や価値」が深く重なり合い、まるで一体になったかのように感じる心理状態を指します。この状態にある人は、その対象のためなら大きな犠牲を払うこともいとわない傾向があることが、これまでの研究で示されてきました。
ただし、これまでの研究には大きな空白がありました。
それは、「こうした強い結びつきは、時間がたっても続くのか」という問いです。
この論文は、共有されたつらい体験は、アイデンティティ・フュージョンを確かに高めるが、それは永続的なものではないという点を、複数の実証研究によって明らかにしています。
アイデンティティ・フュージョンとは何か
アイデンティティ・フュージョンは、単なる「所属意識」や「集団への愛着」とは異なります。
自分という存在と、国や集団、価値が強く結びつき、「相手が強くなることが自分の強さであり、自分の行動が相手を守る」と感じられる状態です。
このとき、人は個人としての自分を失うわけではありません。
むしろ、「個人としての自分」と「集団や価値の一部である自分」が同時に強く意識されます。この二重の意識が、極端な行動や自己犠牲的な行動を支える心理的な基盤になると考えられています。
これまでの研究では、アイデンティティ・フュージョンが、
・集団のために闘う意志
・危険を引き受ける覚悟
・強い道徳的義務感
などと深く結びついていることが示されてきました。
しかし、その「原因」がどこにあるのか、特に時間の経過とともにどう変化するのかについては、十分に検討されてきませんでした。
共有された「つらい体験」は、なぜ結びつきを強めるのか
論文では、アイデンティティ・フュージョンを生み出す要因として、これまでに三つの経路が指摘されてきたことが整理されています。
一つ目は、集団から「受け入れられている」「理解されている」と感じる経験。
二つ目は、集団の成員同士が「同じ本質を持っている」と感じる感覚。
そして三つ目が、感情を強く揺さぶる体験を、他者と共有することです。
特に、恐怖や不安、喪失感といったネガティブで強烈な感情を伴う体験は、人と人との結びつきを急速に強めることが知られています。
戦争、災害、テロ、パンデミックなどは、その典型です。
こうした体験では、「自分だけが苦しいのではない」「みんな同じ状況にいる」という感覚が生まれます。この「共有されている」という感覚そのものが、心理的な結束を生み出すと考えられています。
研究1:スペインにおける新型コロナウイルス流行前後の変化
最初の研究では、スペインで2017年から2022年までに行われた6回の大規模調査データが分析されました。
調査ごとに参加者は異なりますが、同じ方法で「自国とのアイデンティティ・フュージョン」が測定されています。
その結果、2017年から2019年にかけては、フュージョンの平均値はほぼ安定していました。
ところが、新型コロナウイルスのパンデミックが始まった2020年に、フュージョンは明確に上昇しました。
さらに興味深いのは、その後の変化です。
2021年にはやや低下し、感染拡大や厳しい制限が落ち着いた2022年には、ほぼ元の水準に戻っていたのです。
この結果は、「共有されたつらい体験が生じている間は結びつきが強まるが、その体験が終わると元に戻る」可能性を示しています。
研究2:危機を思い出すだけでも結びつきは強まるのか
次の研究では、因果関係をより明確にするため、実験が行われました。
参加者の一部には、新型コロナウイルス流行中の最もつらかった時期を思い出してもらい、もう一方の参加者には日常的な出来事を思い出してもらいました。
その直後に、自国とのアイデンティティ・フュージョンを測定したところ、パンデミックのつらい時期を思い出した人たちの方が、より強い結びつきを示しました。
つまり、実際に危機が進行していなくても、共有されたつらい体験を想起するだけで、結びつきは一時的に高まることが示されたのです。
研究3:ウクライナの戦争と「民主主義」という価値
三つ目の研究では、舞台がウクライナに移ります。
戦争が始まる直前、開戦直後、そして約8か月後という三つの時点で、ウクライナ国内の人々を対象に調査が行われました。
ここでは、国とのフュージョンだけでなく、「民主主義」という価値とのフュージョンも測定されています。
結果は非常に明確でした。
戦争が始まった直後には、国とも民主主義とも、フュージョンが大きく高まりました。
しかし、戦争が長期化し、日常の一部として続くようになると、その結びつきは再び低下し、戦争前の水準に近づいていったのです。
この結果は、「フュージョンの対象は国に限られない」こと、そして「価値との結びつきも、同じ時間的パターンを示す」ことを示しています。
共有された苦しみは「引き金」だが「維持装置」ではない
これら三つの研究を通して、論文が導いている結論は一貫しています。
共有されたつらい体験は、アイデンティティ・フュージョンを活性化させる強力な引き金になる。しかし、それ自体が結びつきを長期的に維持するわけではない。
危機が「今まさに起きている」段階では、人は強い一体感を抱きやすい。
しかし、その危機が終わるか、あるいは慢性化して日常の一部になると、その一体感は次第に薄れていく。
この視点は、これまで「一度生まれたフュージョンはほとんど変わらない」と考えられてきた理論に、重要な修正を加えるものです。
なぜ結びつきは薄れていくのか
論文では、この点についても慎重に考察されています。
人は危機の最中、感情を他者と共有し、意味づけし直すことで心理的な結束を強めます。
しかし、時間がたつにつれて、支援の不足や不公平感、疲労といった要因が、結束を弱めていく可能性があります。
また、重要なのは、「体験がつらかったかどうか」だけではなく、それが「共有されている」と感じられるかどうかです。
苦しみであれ、希望であれ、「自分だけではない」という感覚が、結びつきを生み出す核心にあると示唆されています。
この研究が示すもの
この論文は、パンデミックや戦争という極端な状況を通じて、人と社会の結びつきがどのように生まれ、どのように変化していくのかを、時間軸で丁寧に描き出しています。
強い一体感は、永遠に続くものではありません。
しかし、それが一時的であるからこそ、人は危機の瞬間に大きな力を発揮し、やがて日常へと戻っていくのかもしれません。
共有された苦しみは、人を結びつけます。
ただし、その結びつきは、常に揺れ動く、時間とともに変化するものなのです。

