もしもを考える脳は、なぜ過去を思い出すのか?

この記事の読みどころ
  • 「もしあのとき違っていたら」と考える力は、原因を考える認知機能で、エピソード記憶が中心的に関与する。
  • エピソード記憶は「自分がその場にいた」という体験を思い出す記憶で、意味記憶とは別の性質を持つ。
  • 脳は過去を再生するのではなく、痕跡と現在の状況から未来の展開を予測する仕組みを使っている。

「もしあのとき違っていたら」と考える力は、なぜ人にあるのか

――エピソード記憶が支える“原因を考える脳”のしくみ

私たちは日常のなかで、自然とこんな問いを立てています。

あのとき、ああしていなければ、こうはならなかったのではないか。
もし別の選択をしていたら、結果は変わっていたのではないか。

こうした思考は「後悔」や「反省」として語られることが多いですが、研究者たちは、これを単なる感情の産物ではなく、原因を考えるための重要な認知機能だと捉えています。

ドイツのルール大学ボーフム(Ruhr University Bochum)の哲学Ⅱ講座の研究チームは、人が「もしも」を使って原因を考えるとき、**エピソード記憶(episodic memory)**が中心的な役割を果たしていると論じています。

この研究は、「記憶とは過去を保存する装置である」という見方から一歩進み、
記憶は未来の行動をうまく選ぶための道具であるという視点を提示しています。


エピソード記憶とはなにか

エピソード記憶とは、自分が体験した出来事を、場面ごとに思い出す記憶のことです。

たとえば、

・昨日、雨の中で駅まで走ったこと
・先週、友人とカフェで話した内容
・昔、失敗して恥ずかしかった場面

こうした「自分がその場にいた感覚」を伴う記憶が、エピソード記憶です。

これに対して、
「雨の日は道が混むことが多い」
「コーヒーは眠気を覚ます」
といった一般的な知識は**意味記憶(semantic memory)**と呼ばれます。

従来は、未来を予測するには意味記憶のほうが重要だと考えられてきました。
統計的な規則を知っていれば十分だ、という考えです。

しかし研究者たちは、それだけでは説明できない場面があると指摘します。


統計では対応できない出来事がある

たとえば、こんな状況です。

いつも通勤に使っている道は、早くて便利です。
これまで何十回も問題なく通れました。

ところが昨日、たまたま工事で通行止めになり、遅刻してしまいました。
そこで今日、あなたは別の道を選びます。

統計的に見れば、

「その道は、ほとんどの場合うまくいく」

はずです。

それでも私たちは、たった一度の出来事を重く受け止めて行動を変えます。

研究者は、このような判断は、意味記憶だけでは説明できないと考えます。
必要なのは、「昨日、工事に遭遇した」という具体的な体験の記憶です。


「原因」とはどういう意味か

研究は、「原因」を次のように捉えます。

ある出来事Aが起こらなければ、
結果Bは起こらなかっただろう。

つまり、

「もしAがなかったら、Bは起こらなかったはずだ」

と考えられるとき、AはBの原因である。

この考え方は**反事実条件文(counterfactual)**と呼ばれます。
「実際には起こらなかった別の世界」を想像するという意味です。

例:

・もし目覚ましをセットしていなかったら、寝坊していただろう
・もし雨が降っていなかったら、傘は持っていかなかっただろう

私たちは普段、無意識にこうした思考をしています。


過去を「再生」しているわけではない

ここで研究チームは、興味深い立場を取ります。

私たちは、過去の出来事を録画のように保存して再生しているのではない、というのです。

代わりに、脳は、

・ごくわずかな痕跡
・これまで学んだ知識
・現在の状況

を組み合わせて、その場で過去の場面を作り直していると考えます。

この考え方を研究者たちは、

トレース最小主義(trace minimalism)

と呼びます。

「トレース」とは、海馬(hippocampus)に残る、ごくわずかな神経的痕跡のことです。
そこには、映像や言葉のような形での情報はほとんど含まれていません。

それでも、この痕跡を手がかりに、脳は過去を推測します。


脳は「過去を予測している」

研究では、知覚の仕組みとして知られる

予測処理(predictive processing)

という理論が使われます。

この理論では、脳はつねに、

「たぶん世界はこうなっているだろう」

という予測を立て、
ズレがあれば修正していると考えます。

研究者は、この仕組みが記憶にも使われていると主張します。

つまり、

・感覚入力をもとに現在を予測する
・記憶痕跡をもとに過去を予測する

という対応関係がある、ということです。

記憶とは、保存庫ではなく、過去を推測する装置だと捉え直されます。


反事実思考はこうして生まれる

研究チームは、原因を考えるときの流れを次のように整理します。

  1. まず、ある過去の出来事を思い出す

  2. その出来事の一部を「起こらなかったこと」にする

  3. そこから先の展開を脳内で進める

  4. 結果がどうなるかを見る

たとえば、

「コンロを消し忘れた → 鍋が焦げた」

という経験があった場合、

「もしコンロを消していたら?」

と、出来事の一部を打ち消します。

すると脳は、

「鍋は焦げなかっただろう」

という展開を予測します。

このとき脳は、複数の世界を比較しているわけではありません。
もっともありそうな別の展開を一つ生成するだけです。

これにより、計算量を抑えながら因果判断ができます。


なぜ海馬が関わるのか

脳画像研究では、反事実思考やエピソード記憶の際に、海馬が活動することが知られています。

本研究は、その理由を理論的に説明します。

海馬にある最小限の痕跡がなければ、

・特定の過去場面を再構成できない
・「あのとき」を起点にした別の展開を作れない

からです。

つまり、海馬は、

過去をもとに別の可能性を作る装置

だと位置づけられます。


子どもはなぜ「もしも」が苦手なのか

研究では、発達の視点にも触れられています。

幼い子どもは、

・過去の出来事
・想像上の出来事

を区別する力が十分に育っていません。

そのため、

「本当は起こらなかった出来事」を想像しても、
それを現実と混同しやすいと考えられます。

反事実思考が安定して使えるようになるのは、
こうした区別の能力が発達してからだとされます。


記憶の本当の役割

この研究が示すのは、次のような見方です。

記憶の役割は、
過去を正確に保存することではありません。

むしろ、

未来の選択をより良くするために、過去を使うこと

にあります。

たった一度の出来事から学び、
「次はどうするか」を考える。

そのために、私たちは「もしも」を使い、
エピソード記憶を働かせているのです。


過去を思い出すことは、
後ろを向く行為ではありません。

私たちは、
過去を材料にして、未来を組み立てているのかもしれません。

そして、その営みの中心にあるのが、
「もしあのとき違っていたら」と考える力なのです。

この研究は、記憶を見る私たちの視点を更新しています。

(出典:Philosophical Psychology

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