幸せが近づくほど、遠ざかってしまうとき

この記事の読みどころ
  • 幼少期のトラウマは幸福への恐れを高め、抑うつ症状とつながることがある。
  • 幸福への恐れはトラウマと抑うつを結ぶ中間の心理的経路として働き、特に感情的虐待が影響が強い。
  • 支援では幸福を怖がらずに感じる練習を取り入れる認知行動的アプローチが抑うつを減らす可能性が示されている。

幸福を避けてしまう心

私たちは一般に、幸福は心を支え、つらい状態から回復させてくれるものだと考えています。楽しい出来事があれば気分は明るくなり、前向きな力が生まれる。多くの場合、それは正しい理解でしょう。しかし一方で、「幸せになること」そのものに、どこか不安や恐れを感じてしまう人がいます。うれしい出来事が起きると、なぜか心が落ち着かず、「このあと悪いことが起きるのではないか」と身構えてしまう。そうした感覚は、単なる性格や考えすぎではなく、過去の経験と深く結びついている可能性があります。

今回紹介する研究は、中国の大学生を対象に、幼少期のトラウマが抑うつ症状につながる過程で、「幸福への恐れ(Fear of Happiness)」がどのような役割を果たしているのかを検討したものです。とくに注目されているのは、トラウマと抑うつを直接つなぐだけでなく、その間にある“見えにくい心理の経路”として、幸福を避ける心の働きが存在するという点です。

大学生と抑うつの現実

大学生の時期は、人生の中でも大きな変化が重なる時期です。学業の負担、将来への不安、人間関係の変化など、さまざまなストレスに直面します。この研究に参加した大学生のうち、約3分の1が抑うつ症状を示しており、決して少ない数字ではありませんでした。

研究では、抑うつ症状の強さを質問票によって測定し、軽度から中等度以上の抑うつ状態にある学生が一定数存在することが示されています。こうした背景から、大学生は心理的な支援が必要になりやすい集団であることが、あらためて確認されています。

幼少期のトラウマとは何か

この研究で扱われた「幼少期のトラウマ」とは、16歳以前に経験した否定的な体験を指します。具体的には、感情的な虐待、身体的な虐待、性的な虐待、感情的なネグレクト、身体的なネグレクトといった経験です。

調査の結果、参加者の約4割が、いずれかの形のトラウマ経験を持っていました。とくに多かったのは身体的なネグレクトで、十分な世話や配慮が受けられなかった経験が、少なからず存在していることが示されています。幼少期のこうした体験は、その場限りで終わるものではなく、成長後の心のあり方に長く影響を及ぼすことが知られています。

幸福を恐れるという心理

この研究の中心となる概念が、「幸福への恐れ」です。これは、強い喜びや幸福感に対して、「あとで不幸が訪れるのではないか」「幸せになると罰を受けるのではないか」と感じてしまう心の傾向を指します。

幸福を恐れる人は、楽しい感情を意識的、あるいは無意識に抑えようとします。喜びを素直に味わうことを避け、人とのつながりや前向きな経験から距離を取ってしまうこともあります。研究では、この幸福への恐れが高いほど、抑うつ症状も強い傾向があることが示されました。

トラウマと幸福への恐れのつながり

分析の結果、幼少期のトラウマが強いほど、幸福への恐れも高くなる傾向が確認されました。とくに感情的な虐待は、幸福への恐れと強く結びついていました。

幼少期に、愛情や安心と引き換えに傷つけられる経験をすると、「よい出来事のあとには、必ず悪いことが起きる」という信念が形成されやすくなります。その結果、幸福そのものが危険なものとして認識され、避ける対象になっていく可能性があります。

幸福への恐れが抑うつを媒介する

この研究の重要な発見は、幸福への恐れが、幼少期のトラウマと抑うつ症状のあいだを「部分的に媒介している」ことです。つまり、トラウマは直接抑うつを高めるだけでなく、幸福を恐れる心を強めることで、間接的にも抑うつを深めていました。

統計的な分析によると、トラウマが抑うつに与える影響のうち、およそ3分の1以上が、この幸福への恐れを通じた経路によるものでした。これは、抑うつを理解するうえで、ネガティブな感情だけでなく、ポジティブな感情を避けてしまう側面にも目を向ける必要があることを示しています。

トラウマの種類による違い

研究では、トラウマを一つのまとまりとして扱うだけでなく、その種類ごとの違いも分析されています。その結果、感情的な虐待と身体的なネグレクトは、幸福への恐れを高めることで抑うつ症状に影響していることが明らかになりました。

一方で、感情的なネグレクトについては、やや異なる結果が示されました。感情的なネグレクトは、他のトラウマとは異なり、抑うつ症状に対して直接的には弱めの、あるいは逆方向の関連を示していたのです。研究者たちは、長期間感情が無視される経験が、感情そのものを鈍らせるような心理的適応を生み、その結果として抑うつの表れ方が異なる可能性を指摘しています。

なぜ感情的虐待は影響が強いのか

とくに感情的な虐待が、幸福への恐れと抑うつの両方に強く関わっていた点は、重要な示唆を含んでいます。感情的な虐待では、傷つける言葉や態度と、時折見せる優しさが入り混じることがあります。その不安定さが、「安心や喜びは長続きしない」という学習を強めると考えられます。

その結果、幸福を感じそうになるたびに警戒心が働き、喜びを遠ざける行動が習慣化していきます。こうした心の動きが、抑うつの土台を形づくっていく可能性が示唆されています。

支援への示唆

この研究は、抑うつへの支援を考えるうえで、新しい視点を提示しています。トラウマへの対応というと、苦痛や否定的感情をどう和らげるかに焦点が当たりがちですが、それだけでは十分でないかもしれません。

幸福への恐れに目を向け、「喜びを感じても大丈夫だ」という感覚を少しずつ取り戻していく支援が、抑うつの軽減につながる可能性があります。研究では、認知行動的なアプローチを通じて、幸福に対する破局的な考え方を見直し、安全な形でポジティブな感情と関わることの重要性が示唆されています。

研究の限界と今後の課題

この研究は一時点での調査に基づいているため、因果関係を断定することはできません。また、すべて自己報告によるデータである点にも注意が必要です。それでも、幼少期の経験、幸福への恐れ、抑うつ症状を一つの枠組みで捉えた点は、大きな意義を持っています。

今後は、時間の経過を追った研究や、心理的・生理的な指標を組み合わせた研究によって、幸福を避ける心の形成過程がさらに詳しく明らかにされていくことが期待されます。

幸福を感じることを、もう一度

この研究が静かに問いかけているのは、「私たちは、なぜ幸福を疑ってしまうのか」という問題です。幼少期の経験によって身についた心の守りは、かつては必要だったのかもしれません。しかし、その守りが、今の人生で苦しさを生んでいるとしたら、少しずつ見直していく余地があるはずです。

幸福を恐れずに感じること。その小さな回復が、抑うつから抜け出すための、もう一つの入り口になるのかもしれません。

(出典:BMC Psychology DOI: 10.1186/s40359-025-03925-0

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