なぜ、交渉のプロほど「最初に言わない」のか?

この記事の読みどころ
  • 実務の交渉では先に動く人は少なく、相手の話を待つか状況で判断する人が多い。
  • 先に動く理由には話の枠組みを握ること、現実的な範囲を示すこと、時間や予算の制約があると効率的であることがある。
  • 後から動く理由には相手の情報を引き出すこと、アンカリングを避けたいこと、相手の提示が自分より有利な場合があること、関係性を重視することがある。

最初に動くべきか、待つべきか

交渉では、最初に条件を提示するべきか、それとも相手の出方を待つべきか。この問いは、ビジネスだけでなく、日常のさまざまな合意形成の場面で、繰り返し立ち現れます。これまでの交渉研究では、最初に提示された条件が「基準点」となり、その後の判断に影響を与えるアンカリング効果が強調されてきました。そのため、理論的には「先に動く方が有利だ」と教えられることが多くありました。

しかし、実務の世界では必ずしもそう単純ではありません。実際に交渉を仕事として日常的に行っている人たちは、むしろ「相手に先に話してもらう方がよい」と考える場面が多いのです。この研究は、そうした実務家たちが、どのような理由や状況判断にもとづいて「先に動くか」「後から動くか」を選んでいるのかを、質的インタビューによって丁寧に明らかにしています。

実務家の判断を直接たどる研究

研究では、イスラエルおよび複数の国において、長年にわたり交渉を職業としてきた49人の実務家に半構造化インタビューを行いました。参加者は、金融、法律、IT、医療、公共部門など多様な分野にわたり、日常的に重要な交渉を担っている人たちです。研究者たちは、彼らが「最初に提示する」「相手に先に提示させる」「状況次第で変える」という三つの立場のいずれを取るのか、そしてその理由を詳細に分析しました。

実務家の多くは「必ずしも先に動かない」

まず明らかになったのは、最初に動くことを原則とする実務家は全体の4分の1以下にとどまるという点です。多くの実務家は、むしろ相手の提示を待つか、状況に応じて柔軟に判断すると答えました。この結果は、理論研究で想定されてきた「先手有利」という単純な構図とは異なっています。

先に動く理由① 交渉の枠組みを握るため

先に動くことを好む実務家が挙げた理由のひとつは、交渉の主導権を握れるという感覚です。最初の提示によって話の枠組みを定め、議論の方向性や幅をコントロールできると考えられています。数値だけでなく、条件の構成や交渉の論点そのものを先に示すことで、全体の流れを設計できるという意識が見られました。

先に動く理由② 極端な提案や感情的対立を避けるため

また、相手が極端な条件を出してくることへの不安も、先に動く理由として語られました。相手の提示があまりにもかけ離れていると、交渉の初期段階で感情的な摩擦が生じたり、関係が悪化したりする可能性があります。そうした事態を避けるために、あらかじめ「現実的な範囲」を示しておくという判断です。

さらに、自分の側に明確な制約がある場合、たとえば時間や予算、譲れない条件がはっきりしている場合には、先に動いた方が効率的だと考えられていました。柔軟性が低い状況では、相手の提案を待つよりも、自分の条件を明示した方が交渉が早く進むと感じられているのです。

後から動く理由① 相手から情報を引き出すため

一方で、相手に先に提示させることを好む実務家たちの理由は、より多様でした。多く語られたのは「情報を得たい」という動機です。相手が最初に何を提示するかを見ることで、市場観、期待水準、交渉姿勢、さらには相手の心理状態まで読み取れると考えられています。これは単なる数値情報にとどまらず、相手がどのような人で、どのような関係を築こうとしているのかを知る手がかりにもなります。

後から動く理由② 最初の提示が自分を縛ることへの警戒

また、アンカリング効果そのものを理解していながら、あえて使わないという判断も見られました。最初に提示すると、その数字が相手だけでなく自分自身の思考も縛ってしまい、後からより良い条件を引き出しにくくなるのではないか、という感覚です。最初に出した数字がそのまま「天井」になってしまうことへの警戒が語られています。

後から動く理由③ 相手の提示が予想以上に有利な場合

興味深いのは、「相手の提示の方が、自分が考えていた条件より良い場合がある」という経験が、後手を好む理由として頻繁に挙げられた点です。相手の評価や事情を正確に知らない場合、自分から条件を出すことで、結果的に不利な提案をしてしまう可能性があると感じられているのです。この「逆転した提案ギャップ」は、理論研究ではあまり注目されてこなかった視点です。

後から動く理由④ 関係性と信頼を重視する判断

さらに、相手に先に話してもらうことが、敬意や信頼の表明になるという考え方もありました。交渉を単なる取引ではなく、関係構築のプロセスとして捉える実務家にとっては、先に条件を求めること自体が、相手を尊重する行為と理解されることがあります。

状況によって判断を変えるという現実

この研究では、最初に動くかどうかを固定的な戦略として捉えるのではなく、状況や関係性、情報量、力関係、社会的慣行などを総合的に判断する姿勢が、多くの実務家に共有されていることが示されました。売り手と買い手の役割、組織の規模差、文化的な期待なども、判断に影響を与えています。

研究者たちは、これらの語りをもとに、実務家の判断を整理した概念モデルを提示しています。そのモデルでは、情報の不足や感情的リスクが高い場合、あるいは関係性を重視する場合には後手が選ばれやすく、制約が明確で主導権を握りたい場合には先手が選ばれやすいという流れが描かれています。

理論と実務のあいだにある判断

この研究は、交渉における「正解」を示すものではありません。むしろ、実務家が置かれている現実の複雑さと、その中で行われている繊細な判断を可視化するものです。理論が示す一般則と、現場で培われた経験知とのあいだには、単純に優劣をつけられない関係があります。

交渉の最初の一歩は、単なるテクニックではなく、状況理解や相手理解、自分自身の立場への洞察を含んだ判断なのだと、この研究は静かに示しています。

(出典:humanities and social sciences communications DOI: 10.1057/s41599-025-06356-9

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