公平さは、計算では決まらない

この記事の読みどころ
  • スターバは倫理の基礎として「全ての関係する人の利益を公平に扱うこと」を挙げ、それを合理性から導くべきだとした。
  • しかし著者は、自己利益か他者利益かの三択だけでは公平さを必ずしも導けないなど、疑問を示している。
  • 結論として、公平さと合理性の関係は必ずしも一致せず、神命令説への批判も決定的ではなく、基盤づけはまだ開かれている。

公平さは、合理性から導けるのか

倫理は、神から命じられるものなのでしょうか。それとも、人間の合理的な思考から生まれるものなのでしょうか。
この問いは、古くから哲学と宗教のあいだで繰り返し論じられてきました。

今回紹介する研究は、イギリスのサセックス大学(University of Sussex)に所属する研究者によるもので、現代の倫理学におけるこの古典的な対立を、きわめて丁寧に検討しています。
論文の主な対象は、ジェームズ・スターバという哲学者が提唱してきた「神なき倫理」の構想です。

スターバは、倫理を神の存在に依存させる考え方、いわゆる神命令説を批判し、その代わりに「合理性」から倫理を導こうと試みてきました。
とくに彼が重視するのが、「公平さ」という原理です。

この論文は、スターバの二つの主張を検討します。
ひとつは、「公平さは合理性から導ける」という主張。
もうひとつは、「神命令説は成り立たない」という主張です。

著者は、この両方に疑問を投げかけています。


スターバが考える「合理性から倫理へ」

まず、スターバの立場を整理しておきましょう。

スターバは、あらゆる倫理の土台には「すべての関係する利害を公平に扱え」という原理があると考えます。
そして、この公平さは、道徳的な前提からではなく、合理性そのものから導かれるべきだと主張します。

彼の議論は、次のように進みます。

私たちは日常生活のなかで、自分の利益(自己利益)と、他人の利益(他者利益)が衝突する場面に何度も直面します。
このとき、考えられる立場は大きく三つあります。

ひとつは、常に自己利益を優先する立場。
もうひとつは、常に他者利益を優先する立場。
そして三つ目が、状況に応じて両者を調整する「妥協的」な立場です。

スターバによれば、最初の二つはどちらも「前提をそのまま前提としているだけ」であり、合理的とは言えません。
合理的であるためには、どちらかを最初から特別扱いせず、両方を考慮する必要がある。
その結果として、「公平さ」が合理的に要請される、というわけです。

つまりスターバは、「質問の先取りをしない」という合理性の原則から、「公平に扱うべきだ」という倫理原理が導かれると考えています。


本当に、合理性は公平さを要求するのか

論文の著者は、この推論に慎重な疑問を投げかけます。

まず指摘されるのは、「自己利益か他者利益か」という選択肢が、そもそも網羅的ではないという点です。
スターバは、自己利益を取るか、他者利益を取るか、その折衷か、という三択を前提にします。

しかし、理論的には別の可能性もあります。
たとえば、「そもそも自己利益も他者利益も、合理的理由としては認めない」という立場です。

この立場が直感に反するからといって、論理的に排除できるわけではありません。
もし自己利益や他者利益を重視する理由そのものが「前提の押しつけ」だとするなら、それらを完全に否定する立場も、同じ土俵に立つことになります。

この点で、合理性だけから「両方を考慮すべきだ」と結論づけるのは難しい、と著者は述べます。


合理的だが、不公平な選択肢

さらに著者は、仮に自己利益と他者利益の両方を考慮することを認めたとしても、それだけでは公平さは導けないと論じます。

合理的な選択肢の中には、「不公平だが合理的」と言えるものが存在する、というのです。

論文では、次のような思考実験が提示されます。

自己利益と他者利益が同じ程度に重要な場面があるとします。
このとき、「今後はランダムにどちらを優先するか決め、その結果を一貫して適用する」という方針を採ることも、合理的には可能です。

たとえば、最初にコインを投げて、「表が出たら自己利益を、裏が出たら他者利益を優先する」と決める。
これは恣意的ではありません。
どちらかを最初から特別扱いしているわけでもありません。

しかし、このやり方は、多くの人が「公平だ」とは感じないでしょう。

ここで重要なのは、
合理性と公平さは、必ずしも同じ要求をしない
という点です。

合理的であることと、公平であることは、しばしば重なりますが、完全に一致するわけではありません。
もしそうであれば、「公平さは合理性から必然的に導かれる」というスターバの主張は成り立たなくなります。


神命令説への批判は成功しているのか

論文の後半では、スターバによる神命令説批判も検討されます。

神命令説とは、道徳的な正しさは神の命令によって決まる、という立場です。
スターバは、この立場に対して複数の問題点を挙げています。

たとえば、

・神の命令同士が矛盾したらどうするのか
・特別な啓示を知らない人は道徳的義務を持たないのか
・神が何を命じても正しいことになってしまうのではないか

といった疑問です。

著者は、これらの疑問はいずれも古くから知られているものであり、神命令説側には一定の応答が用意されていると指摘します。

とくに重要なのは、「神の本性」に訴える応答です。
多くの神命令説の擁護者は、神の命令が恣意的になることを否定し、神の本性そのものが善であるため、根本的に悪を命じることはできないと考えます。

この応答が成功しているかどうかは議論の余地がありますが、少なくともスターバの議論だけで決定的に否定されたとは言えない、というのが著者の評価です。


道徳は「理由を与える」ものでなければならない

論文が最も重視しているのは、別の観点です。

それは、道徳的規範は、人に「理由」を与えるものでなければならない、という点です。
単なる命令や事実ではなく、「なぜそれに従うべきか」を内包している必要があります。

この観点から見ると、「神が命じたから」という理由だけで道徳が成り立つのか、という疑問が生じます。

著者は、ここで重要な区別を行います。
すべての神の命令が理由を与える必要はない。
しかし、道徳を基礎づける神の命令は、理由を与えるものでなければならない。

そして、全能な存在である神であれば、「理由を与える命令」を発すること自体は、論理的に可能だと考えられます。

この点において、神命令説は直ちに矛盾するとは言えません。


公平さと合理性のあいだに残る溝

論文の結論は、いずれの立場も単純には否定できない、というものです。

合理性から倫理を導こうとする試みには、大きな魅力があります。
「なぜ道徳的であるべきか」という問いに、直接答えられるからです。

しかし、少なくともスターバが提示した形では、「公平さ」が合理性から必然的に導かれるとは言えない。
公平さは、合理性を超えた、独自の規範的重みをもっている可能性があります。

一方で、神命令説も、外部から見れば大きな形而上学的負担を伴います。
ただし、すでに神の存在を前提とする立場からすれば、それは決定的な欠点とは言えません。

この研究は、どちらかの立場に軍配を上げるものではありません。
むしろ、倫理をどこに基礎づけるのかという問いが、依然として開かれたままであることを、静かに示しています。

合理性と公平さは、どこまで重なり、どこから分かれるのか。
そして、人は何に「従う理由」を見いだしてきたのか。

答えは、まだ完全には定まっていません。

(出典:Religions

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