- 記憶を消したり書き換えたりする技術が現実の話題となり、脳刺激や光での操作が研究されている。
- 記憶は脳だけでなく身体や感情と深くつながっており、身体を含む権利としてのニューロライツが提案されている。
- 治療目的と強化目的を区別し、身体を視点に入れて倫理や規制を検討する必要があると指摘されている。
記憶を書き換える時代に、「わたし」は守られるのか
――身体を失ったニューロライツという問い
はじめに
記憶を消す、弱める、書き換える。
かつては映画や小説の中の話だったこうした行為が、いま現実の技術として語られるようになっています。
脳刺激や薬、さらには遺伝子操作と光刺激を組み合わせた新しい神経技術によって、人の記憶に直接介入することが、理論上は可能になりつつあります。
この論文は、そうした「記憶改変」が人間にとって何を意味するのかを、倫理と人権の視点から静かに問い直しています。
とくに焦点となるのが、近年注目されている二つの概念です。
**精神の完全性(メンタル・インテグリティ)**と、個人の同一性(パーソナル・アイデンティティ)。
著者たちは、この二つを「脳だけの問題」として扱うことに強い疑問を投げかけます。
記憶はすでに操作され始めている
記憶改変という言葉は刺激的ですが、論文ではまず、その範囲を丁寧に整理しています。
ここでいう記憶改変には、次のような介入が含まれます。
・思い出す力を強めたり弱めたりする
・記憶そのものを消去・植え付ける
・記憶の一部だけを書き換える
・記憶が再び固定される過程(再固定)に介入する
・記憶に伴う感情の強さや質を変える
これらは完全な空想ではありません。
実際に、非侵襲的脳刺激、経頭蓋磁気刺激、薬物療法などが、トラウマや恐怖記憶の治療目的で研究・応用されてきました。
さらに注目されているのがオプトジェネティクスと呼ばれる技術です。
これは、特定の神経細胞を光に反応するよう遺伝子操作し、光刺激によって活動を制御する方法です。
動物実験では、恐怖記憶の操作や、偽の記憶の形成すら報告されています。
ただし、人間への応用はまだ極めて限定的であり、著者たちは繰り返し慎重な姿勢を示しています。
記憶を書き換えることの「利益」と「危うさ」
論文は、記憶改変がもたらしうる利益を否定しません。
トラウマ、健忘、認知症などの治療に役立つ可能性は確かにあります。
一方で、深刻な懸念も指摘されます。
とくに問題となるのが、「つらい記憶」を消したり感情を弱めたりすることが、本人の主体性や人生の意味づけに影響する可能性です。
苦しい経験は、必ずしも無意味なものではありません。
それをどう受け止め、どう語り直すかという過程そのものが、人の成長や価値観の形成に関わってきました。
記憶改変は、その機会を奪ってしまうかもしれないのです。
ここで論文は、記憶が単なる「情報」ではなく、人生の物語の一部であることを強調します。
ニューロライツという考え方
こうした問題意識のもとで登場するのがニューロライツです。
これは、脳や心に関わる領域を守るための新しい人権概念とされています。
その中でも重要なのが、
・精神の完全性(心が侵害されない権利)
・個人の同一性(時間を通じて自分が自分であり続ける感覚)
という二つの権利です。
記憶を操作する行為は、これらの権利を直接揺るがす可能性があります。
とくにオプトジェネティクスのように不可逆的な操作を伴う場合、精神の完全性が損なわれないか、慎重な検討が不可欠だと論文は述べています。
しかし、記憶は「脳だけ」にあるのか
ここから論文の核心に入ります。
著者たちは、これまでの議論が脳中心主義に偏っていると指摘します。
近年の研究では、記憶は脳だけで完結するものではないことが示されています。
たとえば、
・身振りや姿勢
・表情や呼吸
・運動や内臓感覚
・ホルモン分泌や腸内環境
こうした身体的な要素が、記憶の形成や想起に深く関わっていることが分かってきました。
つまり、記憶は「身体に根ざした経験」でもあるのです。
身体が覚えているという考え
論文では、「身体化された記憶」という考え方が紹介されます。
これは、記憶が単なる脳内表象ではなく、身体の状態や反応としても保存されるという見方です。
たとえば、ある出来事を思い出したときに、無意識に体が緊張したり、呼吸が変わったりすることがあります。
それは、身体そのものが記憶を保持しているからだと考えられます。
この視点に立つと、脳だけを操作して記憶を書き換えることには、新たな問題が生じます。
脳と身体の間にズレが生じる可能性があるからです。
「身体を失った権利」への警鐘
論文は、現在議論されているニューロライツが、無意識のうちに「脳だけの人間像」を前提にしていることを危惧します。
もし記憶が身体と切り離せないものであるなら、脳だけを守る権利では不十分です。
著者たちは、ニューロライツを身体を含めた全体的な権利として再構築する必要があると主張します。
人は、脳・身体・環境・人生の歴史が絡み合った存在だからです。
治療と強化は同じではない
論文では、治療目的の介入と、健常者への能力強化を明確に区別する必要性も述べられています。
治療の場合、一定のリスクが許容されることもありますが、強化目的ではより厳格な基準が求められます。
この区別は、同意のあり方や規制の設計にも直接影響します。
身体を含めた視点に立つことで、こうした倫理設計もより現実に即したものになると論文は示唆します。
おわりに
この論文が伝えているのは、記憶改変を全面的に否定するメッセージではありません。
むしろ、「何を守るべきか」を問い直す静かな提案です。
記憶は脳の中だけにあるのではない。
身体を通して生きられ、人生の中で意味づけられてきたものです。
だからこそ、記憶を操作する技術を語るとき、
守られるべき「わたし」もまた、脳だけではなく、身体をもった存在として捉え直される必要がある。
論文は、そのことを丁寧に、しかし確かな言葉で示しています。
(出典:Frontiers in Psychology DOI: 10.3389/fpsyg.2025.1731892)

